小泉純一郎の言葉 

世相

  小泉純一郎の議会答弁を聞いていて、紋切り型の話し言葉に嫌な感じを抱いた。「構造改革」の言で「構造改革なくして景気回復なし」をスローガンに、道路関係四公団・石油公団・住宅金融公庫・交通営団など特殊法人の民営化など小さな政府を目指す改革(「官から民へ」)と、国と地方の三位一体の改革(「中央から地方へ」)を含む「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である郵政三事業の民営化を「改革の本丸」に位置付けた。特殊法人の民営化には族議員を中心とした反発を受けた。戦後の制度疲労のいくつかを取り上げ、規制緩和とか民間活力の導入という語で補完するに過ぎない。

 小泉の議会答弁を聞いていると、戦時中の東条英機のそれと極めて類似しているように思う。開戦直後の政府提出法案(言論出版集会結社臨時取締法)の審議中に、ある議員から「この法案の『戦時下ではない状況』とはどういう状態を指すのか」との質問に「平和回復、それが戦争の終わりである。」と答えた。質問した議員は「法制的な解釈」を質しているわけだが、東条はその意味がわからずひたすら「戦争の必要がなくなった時です」を繰り返した。東条は軍人で、こうした質問に対して知識を持っていなかったのである。むしろ持つ必要がなかったと言ってよい。それは1938年に成立した国家総動員法は、全ての条文に「政府は戦時に際し国家総動員上必要アルトクハ勅令ノ定メル所ニヨリ・・・」とあって、勅令さえ出せば、全てのことが可能だったのである。

 小泉内閣は、「イラク特別措置法」を、臨時閣議を開いて決定した。この基本計画は四項からなっており、自衛隊の活動が戦闘行為のないと考えられる派遣先を規定しているのは、軍事行動をさける意味を含んでいる為だった。「危険地域とはどこか」との問いに、「私に聞かれてもわからない」の答え、さらに「自衛隊が紛争地で活動するのでは」との問いに、「自衛隊がいる地域は非紛争地である」と答えた。また「あなたがイラクに行ったら」の意見に、「私は貧弱で、イラクに行っても戦力にならない」と答えた。国民を愚弄した発言である。「イラク特別措置法」の問題点は人道的支援と言っても相手があることで、こちらの主観的見方でしかない。この国会での答弁で総理大臣が支援地域を指定するに当たって「その際、治安状況の厳しい地域における活動については、状況の推移を特に注意深く見極めた上で実施するものとする」と言った食いの表現が多い。この法案には見事に賛成、反対の論調が二分されている。小泉の「使命感に燃え、決意を固めて征こうとしている自衛隊に、多くの国民が敬意と感謝を持って送り出し欲しい」と記者会見で述べたこともあり、自衛隊を温かい目で送り出すべきだの指摘がなされた。出征兵士を送り出すこの言に歴史への無自覚さがにじみ出ている。800万の青年、壮年を「万歳、万歳」で送り出した事を忘れたのか。私の知り合いの戦争経験者で「万歳」を拒否する人がいる。戦前その人が子供の頃、「万歳」で国民を戦地に送り出したのを、覚えていたからである。ベトナム戦争でアメリカの帰還兵が、故郷で英雄扱いされるどころか罵倒に類する語で地域社会からはじき出されたという。「なぜこの軍事行動が必要なのか」の共通理解のないまま戦場に送られ、帰還後追い詰められて行くというのが正直な姿なのであろう。

  小泉は、2002年(平成14年)9月に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現し、日朝平壌宣言に調印した。この訪問で金正日は北朝鮮による日本人拉致を公式に認め、拉致被害者のうち5名を日本に帰国させることを承認した。しかし、残りの拉致被害者のうち8名が死亡・1名が行方不明とする北朝鮮の回答に対し、拉致被害者家族は怒りを隠さず、交渉を終え帰国した小泉を面罵する場面もあった。2004年5月、小泉は再び北朝鮮を訪問、同国首都の平壌市で金正日総書記と2回目の日朝首脳会談をした。北朝鮮に対する25万トンのミニマム・アクセス米や1000万ドル相当の医療品の支援を表明し、日朝国交正常化を前進させると発表した。この会談で新たに5名の拉致被害者が日本に帰国した。小泉はアメリカとの連係を強化して「対話と圧力」の姿勢を維持した。

  小泉の最大の関心は、持論の郵政民営化にあった。参院選を乗り切ったことで小泉は郵政民営化に本格的に乗り出し、2004年9月に第2次小泉改造内閣を発足させ、竹中平蔵を郵政民営化担当大臣に任命した。「基本方針」を策定して、4月に開設した郵政民営化準備室を本格的に始動した。

 2005年(平成17年)、小泉が「改革の本丸」に位置付ける郵政民営化関連法案は、党内から反対が続出して紛糾した。小泉は一歩も引かぬ姿勢を示し、党内調整は難航する。反対派は亀井静香、平沼赳夫が中心となり長老の綿貫民輔を旗頭に100人近い議員を集めた。法案を審理する党総務会は亀井ら反対派の反発で紛糾し、遂に小泉支持派は総務会での全会一致の慣例を破って多数決で強行突破した。反対派はこれに激しく反発し、事態は郵政民営化関連法案を巡る小泉と亀井、平沼ら反対派との政争と化した。

衆議院本会議における採決で、反対派は反対票を投じる構えを見せ、両派による猛烈な切り崩し合戦が行われた。7月5日の採決では賛成233票、反対228票で辛うじて可決されたが、亀井、平沼をはじめ37人が反対票を投じた。参議院では与野党の議席差が少なく、亀井は否決への自信を示した。小泉は法案が参議院で否決されれば直ちに衆議院を解散すると表明するが、亀井ら民営化反対派は、衆院解散発言は単なる牽制であり、そのような無茶はできないだろうと予測していた。

2005年8月8日、参議院本会議の採決で自民党議員22人が反対票を投じ、賛成108票、反対125票で郵政民営化関連法案は否決された。小泉は即座に衆議院解散に踏み切り、署名を最後まで拒否した島村宜伸農林水産大臣を罷免、自ら兼務して解散を閣議決定し、同日小泉は、憲法第7条に基づき衆議院解散を強行した。

小泉は、法案に反対した議員全員に自民党の公認を与えず、その選挙区には自民党公認の「刺客」候補を落下傘的に送り込む戦術を展開。小泉は自らこの解散を「郵政解散」と命名し、郵政民営化の賛否を問う選挙とすることを明確にし、反対派を「抵抗勢力」とするイメージ戦略に成功。また、マスコミ報道を利用した劇場型政治は、都市部の大衆に受け、政治に関心がない層を投票場へ動員することに成功した。それにより9月11日の投票結果は高い投票率を記録し、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得した。この選挙はマスコミにより「小泉劇場」と呼ばれた。

2005年9月21日、小泉は圧倒的多数で首班指名を受け、第89代内閣総理大臣に就任する。10月14日の特別国会に再提出された郵政民営化関連法案は、衆参両院の可決を経て成立した。この採決で、かつて反対票を投じた議員の大多数が賛成に回り、小泉の長年の悲願は実現した。

なお、賛成票を投じた永岡洋治議員の自殺のように郵政民営化関連法案の成立には多くの事件が発生していた(葬儀に小泉が出席した後、故人の親族は本法案の賛成を表明)。

  総理大臣時代は原発推進の立場だったが、東日本大震災を経た2011年夏頃までには「脱原発」を主張するようになっていた。2013年秋頃からは、講演会等でも盛んに発言するようになり、メディアに頻繁に取り上げられるようになった。この発言を脱原発や反原発を主張するみんなの党代表渡辺喜美や生活の党代表小沢一郎など野党各陣営が歓迎し、10月29日には反原発を掲げる社民党党首吉田忠智と会談まで行った。2014年2月の東京都知事選では、脱原発を争点に立候補した細川護熙を支援したが、細川は落選した。

2018年1月10日には、自らが顧問を務める民間団体「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」の記者会見で「原発ゼロ・自然エネルギー基本法案」を発表。内容は原発の即時停止を求めるもので、法案への支持を与野党に呼び掛けた。

  また、細川護煕、村山富市、鳩山由紀夫、菅直人の元首相4人と一緒に、EUの執行機関・欧州委員会の委員長であるウルズラ・フォン・デア・ライエンに対して、EU内での原発反対を求める書簡を2022年1月27日付で送った。しかし、書簡の中の「福島原発事故の影響で子供たちが甲状腺癌に苦しんでいる。」との記述に関して、「偏見を助長する。」として各方面から批判の声が上がった。山口壮環境相は「(県や国連の専門家による調査で)現時点では放射線の影響とは考えにくいという趣旨の評価がされている。」「いわれのない差別や偏見を助長することが懸念される。」として抗議し、内堀雅雄福島県知事も「福島復興のためには、科学的知見に基づいた情報発信が極めて重要。」「客観的な発信をお願い申し上げます。」として小泉らに慎重な対応を求めたほか、与野党幹部らが小泉らを批判し、とりわけ自民党は小泉らに対する非難決議を取りまとめる構えを見せた。一方、小泉らは市民団体を通じて山口環境相や内堀知事に逆に抗議し、質問書を送った。

  私が勤めていて、休み時間車のラジオで国会を聞いていた時驚くべき事をあの、ひょうひょうとした言葉で語っていた。有権者の意識調査で、小泉の支援者のことを個別に調べるのはとの問いに、その本題の前段は忘れたが「・・・私の支援者は知的水準が低いので・・・」と語ったのである。だから「小泉劇場」もでき、マスコミも小泉の本当の問題点よりも、その芸人の芸を語るような追求になったのであろう。

             参考文献

                    「昭和戦後史の死角」  保阪正康

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