1961年(昭和36年)3月28日の夜に三重県名張市葛尾地区の公民館で集落の懇親会があった。その会で振る舞われた葡萄酒に農薬ニッカリンが混入されていて、葡萄酒を飲んだ多くの女性が倒れ5人が亡くなった。第二の帝銀事件と注目を浴びて、被疑者として参加者の奥西勝(35歳)が逮捕された。事情聴取は執拗を極め、ついに奥西勝は自白をする。昔の警察の事情聴取は拷問のようなものであったろう。自白後警察は奥西勝本人に記者会見をさせる。それをテレビが放映するのである。今では考えられないことだ。その後奥西勝は否認に転じる。自白直後集落の人々の奥西家を支えようという動きが、否認に転じてからは奥西家への嫌がらせへと変わる。家への投石など、奥西の妻も死んだ、家にいた奥西の母親、子供達はどんな思いでいたことか。堪らない恐ろしさを感ずる。警察署に入ろうとする奥西勝に子供が「おとうちゃん」と叫んだか分からないが、奥西勝が子供に振り向く写真が子供も写って新聞に載った。これも今では考えられないことだ。その後奥西家が集落を去ると墓まで掘り起こされる。アパート暮らしの奥西の母は子供の無罪を信じていたそうだ。その母も息子を迎えることも出来ず亡くなる。
この集落の仕打ちは小さな集落で奥西勝が自白から否認に転じてからで、それは奥西勝が犯人でなければ真犯人は村の中にいることの恐れからではないかと言われている。
その後刑事裁判で死刑判決が確定したが、冤罪を訴えて生前9度にわたる再審請求を起こし、死刑確定から43年間にわたり死刑執行が見送られ続けた一方で、再審請求も認められることなく、八王子医療刑務所で死亡した(89歳没)。その後妹が代理となり再審請求を起こしていたがそれも却下された。その後どうなっているのか。
当事件は本、ドキュメンタリー映画、映画で「当事件は冤罪である」と言う立場で数多く取り上げられている。裁判の経緯を読むと「冤罪」を晴らす難しさ、裁判の理不尽さに呆れる。ひとつ、ひとつ取り上げないが、細かい些細な事柄にまで気を配る弁護団の「冤罪」を晴らすという執念には感嘆する。
刑事事件の殆どが有罪というのも頷ける。検察が起訴すると言うことは相当自信がないとやらないだろうと思うのと、無罪となると検察の汚点となるから検察も必死になるのであろう。そして裁判所も恐ろしく感じる。この事件ではないが、ある本におかしな裁判官達を取り上げたものがあった。無罪に繋がる証拠は公判に挙げられないか、有罪になりそうなものだけ上げる。袴田事件ではないが、証拠の捏造と思われることも、やられているのではと思ってしまう。それぞれ有名大学の法学部を出ているだろうに怖いものを感じる。純粋な動機をもって裁判官を目指した人も多いと想うが、組織が人を変えてしまうのだろうか。山形県新庄市の中学校でのマット殺人事件で、被害者の親が加害者に損害賠償の裁判を起こした。その時山形地裁に赴任した裁判官は無罪にしてやると、意気込んで山形に向かったと言う。怖い話だ。これを詳細に書いた本は、私の本の中に紛れ見つからなかった。そして冤罪で死刑を執行された人はどれだけいるのだろうか。その人達の執行直前の心情を思うと堪らない。疑わしきは被告人の利益に、はどこに行ってしまったのだろうか。