画家曖光の生き方

人生

 靉光(本名石村日郎)は広島出身の将来性を大いに嘱望された画家だった。敗戦後復員すること無く中国で病没した。そのとき側にいたのが父の知り合いで、靉光の飯盒を持ち帰って遺族に手渡した。父の友人からそのときの様子を聞き、さぞ靉光は無念だっただろうと思われる。それから靉光の遺族とその知り合いを通して親交ができ、知り合いと父は子供の私を連れて自転車屋(?)の曖光宅に行ったこともある。その後美術館で見かける絵が、訪ねた自転車屋の部屋の片隅に無造作に、ごろごろと置いてあった記憶がある。曖光の奥さんは、絵の売却のことで知り合いに相談に来ていたようだ。知り合いは小説には著作権があり、絵にもそれ相応の対価があって良いから高く売れと言っていたという。

 靉光は戦時下戦争画を描く事嫌い生活も苦しかったそうだ。絵の具にも困りなかなか描けなかった時「絵の具が無ければ泥を使ってでも描いてやる」と言い放ったそうだ。戦争に協力した思われる作家、画家には藤田嗣治、小磯良平、林芙美子などがいる。小磯良平は陸軍省嘱託として中国や南方の戦地に赴き、戦闘場面や兵士の姿をスケッチした。彼の戦争画は、戦争の悲惨さや人間の尊厳を表現するもので、戦意高揚やプロパガンダとは一線を画していたようだが、しかし、敗戦後は戦争協力画家として批判され、自らの作品に苦悩した。彼は生前に戦争画を書いてしまったことを、心が痛むと述べていたと言われている。藤田嗣治は陸軍省嘱託として戦争画を描いた。戦争画の中でも有名な作品に「アッツ島玉砕」や「シンガポール陥落」がある。戦争賛美の国粋主義を掲げ、国家は芸術家に発注をし、派遣された画家は従軍画家として戦闘場面や出征など様々な場面が描いた。敗戦後は戦争協力画家として責任を追及される。そうした画家達の中で、自分の信念を貫いた曖光の死は残念でならない。

 その後バブルで絵画が高額で売買される中で、靉光の絵も高額で取引されていた。東京の近代美術館に行った際、靉光の作品「自画像」があり目にとまった。曖光の死に様を聞き、遺族の戦後を見てきたので気になった。自画像の眼は何を見ているのだろうか。彼の生き方に惹かれるものがあり、「絵の具が無ければ泥を使ってでも描いてやる」の精神は、私のこれまでの人生に大きな影響を与えた。

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