宇都宮徳馬とは、日本の政治家であり実業家であった人物である。彼は1906年に東京で生まれ、父は陸軍大将の宇都宮太郎だった。京都帝国大学で河上肇に師事したが、不敬罪で退学した。その後、日本共産党に入党したが、治安維持法違反で逮捕された。釈放後は満州事変後の株高騰で得た利益をもとに1938年にミノファーゲン製薬を設立した。
戦後は自由党から衆議院議員に当選し、自由民主党の結党にも参加し、リベラリストとして日中・日ソ・日朝の国交回復や軍縮に尽力した。1976年にロッキード事件や金大中事件の処理に反発して自民党を離党し、議員も辞職した。1954年、宇都宮は中国を訪問し、新中国成立5周年の国慶節に参加、周恩来総理が会見した。また、1959年には石橋湛山元首相とともに訪中し、その後のLT覚書(国交はないものの、互いの連絡事務所を設置し、政府保証の融資を利用して行われた半官半民的な貿易形態)貿易協定の礎を築き上げた。中日国交正常化前夜には、藤山愛一郎氏らとともに「日中国交回復促進議員連盟」を発足させた。
国交正常化後の中日関係は比較的順調に発展したが、歴史教科書問題、靖国問題、光華寮問題などが起こった。これに対し宇都宮はいつも身を挺して有益な貢献を行った。
とくに歴史的問題に正確に対処することについて彼は、何回もこう表明した。「日本帝国主義が起こした中国侵略戦争によって、両国の人々は苦難に満ちた日々を送った。日本が中国にあれほどの不幸なことをしたのに、中国は1972年の国交正常化の際、日本に対する戦争賠償請求を放棄した。日本経済が今日のように繁栄できたもっとも重要な条件の一つは、中国が日本に戦争賠償を支払わせなかったことだ。中国人民のかくも広い心を、日本国民は忘れてはならない」、日中国交回復前の交渉では、当時日本側は日中戦争の賠償の問題、賠償金額等を懸念していたが、宇都宮は中国政府高官から「日本政府に賠償を求める考えはない。ドイツの例を見ても戦争に負けた国に賠償金を求めても平和な関係は築けない。」との中国政府の方針を聞き、「心のなかで日本国民に代わって頭を下げた」という。
江田三郎の対談で、
「私は二十何年政権をとっていた自民党にいたんだが、なすべきことをなさないで、よけいな悪いことばかりしている自民党をなんとか改革しなきゃいかんと思ったんだが、もはやなすすべがない。江田さんよりはるかに自民党にも政治にも絶望感が深いと思うよ」と述べている。
統一教会についても、1977年5月25日の衆議院法務委員会で質問に立った。野党議員は主に統一教会の入信者に対する「暴行事件」や大量の朝鮮人参販売をめぐって質疑したが、前年の衆議院選挙で国際勝共連合から組織的な選挙妨害を受けた宇都宮議員は自らの体験を基に以下のように国際勝共連合の実態について明かしていた。
「私の調べたところでは、勝共連合と統一教会は大体一体の団体である。つまり、統一教会というものがいろいろな下部団体を持っていて、例えば、世界日報というものもあります。それから統一産業という商事会社もありますけど、これは一つの集団がいろいろ分かれていて、それで統一産業から統一教会に行くとか、お互いに幹部の更迭なんかをしています。ですから国際勝共連合というのは中心の指導者は文鮮明(教祖)であり、そしてその成員も結局、統一教会の人たちで構成されていますと語っている。」
1980年から1992年まで参議院議員を務め、新自由クラブや進歩党と協力した。内外の軍拡傾向に抗議し国際軍縮議員連盟を組織する。宇都宮軍縮研究室から月刊誌『軍縮』を発行し、憲法擁護の論陣を張った。2000年に93歳で亡くなった。
晩年には、平和を擁護し、軍拡に反対し、軍縮を追求する気持ちがますます強くなった様に思う。彼は「日中友好は、日本の最大の安全保障であり、日中友好は世界平和の条件である」と語り、中日友好と世界平和を結びつけ、自らの生涯の奮闘目標にしていた。
中国の宋健は宇都宮徳馬を「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」といい周恩来総理の言葉を引用し、「両国関係のために奔走し、心血を注ぎ、重要な貢献をした先輩」であると偲んだ。
宇都宮徳馬は、日本の政治史において異色の存在であった。彼は経済的自由主義を主張する一方で、平和共存外交や非同盟諸国との協力を推進した。彼はアジアの共産圏との対話を重視し、日中友好協会の会長やアルジェリア民族解放戦線の支援者としても活動した。彼は核軍縮や憲法擁護のために国内外で声を上げ、多くの人々から尊敬された。彼の生涯と業績は、今日の世界情勢においても参考になるものである。