子供の頃から歴史、それも戦国時代のものをよく読んだ。多くの武将の中でも上杉謙信が好きだった。戦国時代越後の国を治めた武将で,越後の龍と恐れられ、戦上手の武将であった。初名は長男景虎、関東管領を次いで上杉政虎、最後に称した謙信は法名である。一生独身を通し、北条家から養子景虎を譲り受け次がせようとした。しかし謙信亡き後、跡継ぎを巡って起きた御館の乱で景虎は上杉景勝に討ち取られる。
謙信は越中、信濃、関東に度々出征し、北条氏康の篭城した小田原城を囲み苦しめた。村上義清の要請を受けて信濃への出征では武田信玄と計4回戦った。第4次川中島の戦いは激戦で双方大層な被害があった。武田信玄は,弟信繁,山本勘助など有力な武将を失うなど甚大な打撃を受けた。この時の戦いは、武田側が山本勘助のきつつきの戦法で,上杉軍を挟み撃ちで破ろうとするのを、謙信が布陣していた妻女山から武田側を見て煮炊きの煙の多いことに武田側の動きを察する。そして妻女山を下り武田側の別働隊が、妻女山にたどり着く前に、川中島にいた信玄の本陣に襲いかかる。上杉側の情報活動が優れていたのであろう。戦いの前半は上杉側有利に、後半は妻女山から下った別働隊が上杉側をはさみ武田有利に終わった。
川中島には何度か行った。城のあった松代にも泊まった。そのときの松代は今のような観光地ではなかった。旧い昔ながらの町並みであった。昭和の大本営跡地があり、松代群発地震の研究に使われていた。佐久間象山、真田記念館など飽きないほど色々あった。家族で泊まった夜、ひとりで飲みに出た。外は誰もいなかった。暗かった。1軒開いていた飲み屋に入った。客は私一人、女将が、用があるので飲み物は適当に飲んでくれと、留守番を頼まれたのには驚いた。まもなく女将も戻り、地元の客が一人入ってきた。その人と話をした。長野県人は議論好きだとか、信越線は、本当は今の長野駅ではなく松代を通る予定が、松代の反対で今のようになったとのこと。長野の県歌も自慢そうに話をしていた。長野県は上と下(北と南の方が無難か)で仲が悪いとも話をしていた。私にとって印象に残る飲み屋であった。そこで川中島の戦いがあり、江戸時代は真田が治めていた。
なぜ川中島の戦いは何度も起こったのだろう。武田信玄は領土拡張を、上杉謙信は信濃の武将村上義清等から援助要請というのが理由と言われているが、長野では千曲川、新潟県では信濃川と呼ばれる川の存在も大きかったのではないか。上杉謙信は裕福で、商品の運搬に、交通手段としての川は重要であったはずだ。武田信玄の甲斐は海がなく,南は北条、今川がいてなかなか出られず、狙うは北の上杉か。信濃は小豪族が多く進出しやすかったのも理由か。
私は、謙信、信玄の地元を訪れた。謙信の春日山城、信玄の武田神社、それぞれから見る、上越市、甲府市は綺麗だった。歴史を感じながら見る景色は格別である。
上杉謙信の話は語り始めると終わらないので今回は最後に一つだけ語る。川中島の戦いで武田信玄は鶴翼の陣形で、上杉謙信は車がかりの陣で臨んだと書かれていたが、鶴翼の陣形はイメージできるが、車がかりの陣とはどのようなものだったのか、昔の本の説明文を読んでもなんか納得がいかなかった。車がまわるように新手が次々と襲いかかるというものである。子供の頃から何か引っかかるものがあった。昔の映画で千葉真一の「戦国自衛隊」と言うのがあった。その映画で上杉軍が自衛隊の戦車を使い武田軍に突入するのである。この車がかりは納得がいった。はたして、車がかりの陣とはどのようなものだったのだろうか。少し調べてみた。「車懸りの陣とは、攻撃するとすぐにその部隊が下がり、また別の部隊が攻める循環式の陣形だ」といったニュアンスで説明される事が多く、信玄は「あれは車懸りと言って、乱戦に持ち込んで、最後に旗本同士の決戦へと持ち込む動きだ」と説明しており、陣形ではなく軍法つまり戦術の名前として使っている。戦術は当時の言葉で言い換えると「行」(てだて)で、つまり、ここで説明される「車がかり」とは、謙信の旗本が敵の旗本を攻めるための戦術をさしているというのである。分かったような、分からないような説明であった。
また上越、甲府、松代には行ってみたい。