帝銀事件の謎

世相

 1948年(昭和23年)1月26日、帝国銀行(現三井住友銀行)の支店に「東京都防疫班」という腕章をつけた人間が現れ、近所で赤痢が発生したと言い、予防薬を飲むように銀行職員に言い、手本を示しながら劇薬を飲ませた。行員は間もなくばたばたと倒れ12人が死亡した。薬品の扱いに慣れた様子から医療関係者が疑われ、特に「731部隊」が目をつけられた。しかし当時GHQの統治下にあった日本は、GHQから旧陸軍関係者への捜査を取りやめるように命じられる。

   私は中学校の時図書館で「731部隊」の本を読んだ。人体実験の被験者が主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人等で、彼らをマルタと称して人体実験していたことに衝撃を受けた。その後別の本で、この人体事件の内容を詳細に知るが、語ることも出来ないほどの内容であった。石井中将が指揮をしたので石井部隊とも呼ばれたが、戦後石井中将はアメリカに資料を提出して訴追を免れ、その他多くの軍医は全国の大学に散らばったと書かれていた。

  捜査本部は毒薬以外にも事件で使用された名刺に注目していた。そこからテンペラ画家平沢貞道がでてくる。警察は7か月後の8月21日に北海道小樽市で平沢貞道を逮捕する。逮捕の決め手は、犯人が銀行で差し出した「松井」という名刺で、この名刺は平沢が以前に知り合った松井という男からもらったものであったが、警察はこれを犯行時に使用した証拠とみなした。また、平沢が持っていた青酸化合物や毒薬製造に使われる器具も物的証拠とされた。しかし、平沢は取り調べ中に自白と否認を繰り返し、最終的には犯行を否認する。取り調べは強引で拷問のようであったようだ。自白とされる内容も矛盾や不自然さが多く、動機や理由も明確に語っていない。さらに、物的証拠も不十分であり、青酸化合物や器具は画家として使用していたものであり、毒薬製造の能力もなかったと主張した。1950年に一審で死刑判決が下された後も、平沢は再審を求め続けた。しかし、裁判所は再審請求をすべて棄却した。1955年に最高裁で死刑が確定した後も、平沢は無罪を訴え続け、その間にも支援する者や弁護士が増えていき、「平沢貞通氏を救う会」などの団体が結成された。歴代の法務大臣は死刑執行命令を出さずに見送り続けた。再審請求17回、恩赦願3回提出されたが認められず、1987年5月10日、95歳で獄死した。

 名張葡萄酒殺人事件の奥西勝、平沢貞道は40年近く服役し獄死をしている。この間の法務大臣はどのように考えていたのだろうか。元国会議員亀井静香のように「俺は死刑反対だ」と死刑制度を考える政治家はいるのだろうか。本当に冤罪で死刑が確定した者は、どのような様な心情にいるのだろうか。想像するだけで、恐ろしくなる。それを考えると死刑という制度そのものも怖い気がする。冤罪で死刑を執行された人もいるのであろう。戦前はさることながら、戦後も事情聴取は拷問に近いものも多かったであろう。判決理由が自白のみというものは要注意である。袴田事件のように検察が証拠をねつ造したのではないかと思われるものもある。周防正行監督脚本の痴漢冤罪事件の「それでもボクはやっていない」を見ると刑事裁判も怖くなる。

  当初から平沢は無罪と言われ、多くの書物、映画がでて色々な指摘をしている。当時世間の注目を一番に集めていたのは事実であろう。私が学生時代帰省中の列車の中で、酒を飲んで親しくなった人が「実は私は刑事で・・・」、「帝銀事件は上からの圧力で、あれの捜査中止は無念だったと・・・」、「平沢は無実である。」と周りには聞こえないように語っていた。その人が刑事だったかも不確かだが、それほど世間の注目を集めていたのである。

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