JCO臨界事故と朽ちていった命 

世相

  「朽ちていった命」は何度読んでも涙がでる。もうとても読めないと想いながらも、本を手にする。福島第一原発事故の直前にも読んでいた。また山形の土門拳記念館でチェルノブイリの青白い少女の写真にも見いった。この女の子はどうなったのだろうと思い馳せていたら、その直後福島第一原発事故が起こった。「朽ちていった命」の全文を載せたいが概要を知って貰いたくインターネットから必要な箇所をコピーして書く。大内久さん(当時35歳)は妻と小学校3年生の息子の3人暮らしで,子供の入学に会わせて実家の敷地内に家を新築していた、几帳面な性格で毎日6:00起床、6:40出社。一日一箱のたばこを吸い、午後5:00に帰宅後、焼酎2杯ほど飲んで午後9:00に寝るというのが、大内さんの日常であった。それがこの事故で一変した。

  茨城県東海村で核燃料加工施設JCOが臨界事故を起こしたのは、1999年9月30日である。高速増殖炉「常陽」で使用する核燃料をバケツで加工中、ウラン溶液が臨界に達し、「チェレンコフの光」,放射線の中でも最もエネルギーの大きい中性子線が作業員の体を突き抜けた。緊急サイレンが鳴り,上司の「逃げろ」大内さんは更衣室に逃げ込んだが,その直後、突然嘔吐し,意識を失った。作業をしていた大内久さん(当時35歳)と作業員1人が被爆しその後死亡した。国内で初めての臨界事故であり、被曝死亡者もこれが初めてだった。「読むことがつらい」という本はそう滅多にあるものではない。「朽ちていった命」はページをめくるのがつらい。「つらい」というより「怖い」と感じた箇所が多数ある。大量の放射線を浴びた人は、いったい、どのようになってしまうのか。眼や口などの顔、手足、内臓。それらはそれぞれに、どのように変化していくのか。映像も残っていて,その変化の凄まじさに目を背けるであろう。まともに見られない。その映像の後ろに家族がいる。息子がいる。その変化に大内久さん本人が一番驚いたのではないか。

 入院直後の元気そうな大内さんが被曝から何週間も過ぎた後に、皮膚が焼けただれ、毎日、大量の体液がしみ出して行く。当初、意識がはっきりしていた大内さんの無惨で、無念な姿は、誰しもが心に刻み付けてよいはずだ。大内さんの奥さん、子供は今どうしているのだろうか。同書の最後のほうで「放射線の恐ろしさは人知を超えていた」と書く。実に淡々とした、それでいてこれ以上はない迫力を持って訴えかけてくる同書の中で、この一文こそが主眼である。もちろん、「朽ちていった命」では朽ちていく夫を見守る家族、医師や看護師たちの、愛情溢れる思いは綴られている。だからこそ、余計にページをめくって、被曝後の日々の経過を知ることが怖くなる。

 被曝した大内久さんを治療した前川和彦・東京大学医学部教授(当時)の回顧も、すさまじい内容だった。前川は,大内さんの病状や治療について毎日欠かさず家族(妻、両親夫婦夫婦)に説明していた。今後病状が悪化した場合、どういう変化が予想されるかも率直に伝えていた。以下が前川の言葉である。

 ” 「まさか(その後)全身の様子があんなふうになるとは誰も思わなかったです。大内さんは意識もしっかりしていた。水泳で全身がちょっと日焼けしたかな、くらい。顔はちょっとむくんでいたけど、どこが悪いの、という感じでした」 「一日一日、驚きの変化でした。血液の液体成分が血管の外に出て失われ、体がむくむ。肺に水がたまり、酸素の取り込みが悪くなって、4日目ごろ、昼夜逆転の不穏状態に。採血され、胃の検査をされ、『モルモットみたいね』という発言が大内さんから出てきました。でも、話をしたのは最初の3~4日くらい。その後は人工呼吸管理が必要となり、持続的に鎮静薬を投与し、意識をなくしました」 「急性被ばくの患者なんて誰も見たことがない。皮膚の様子は刻々と変化し、いろんな症状が出てくる。(皮膚が再生されず)身体の表面から大量の体液と血液が失われ、それに大量の下痢。終わりのほうでは、毎日1万cc以上という量の輸液です」 ”

 前にも述べたが、残っている大内久さんの闘病83日間の顔写真を見ると恐ろしくなる。被爆から7日目の看護記録に大内さんの我慢の限界を超えた叫びが多くなってきた。  「もう嫌だ」「やめてくれよ」「茨城に帰りたい」「おふくろ」「一人にしないで」治療用のマスクを突然がばとっと起き上がり、「こんなのは嫌だ。このまま治療をやめて家に帰る。帰る」初めて見る大内さんの激しい抵抗に看護婦は衝撃を受ける。なかでも,あるとき大内さんがつぶやいた「おれはモルモットじゃない」に医師や看護婦はショックを受けた。膨大な医薬品や血液などの医療資源が使われていく。しかし、そうして行った処置は患者に苦痛を与えるのだ。この医療行為はどこまで許されるのかという葛藤に悩まさられる。治る見込みのない治療行為に、患者の「生きる」とは「死」とはどういうことか医療関係者はどのように考えれば良いのか。

 東京電力福島第一原発が事故を起こしたのは、東海村の事故から干支が一周りした2011年である。この事件を扱ったNHKの番組の放送からは10年のことだ。事故後、多くの関係者は「想定外」だと言い募った。しかし、大内さんらが亡くなった後、前川医師は「何かが起こらないと何もしないという場当たり主義に決別し、お二人の犠牲を無にすることなく、しっかりとした緊急被ばく医療体制をつくっていきたい」と書き記している。もしかしたら、また何年後かに何らかの事象を前にして「想定外」と誰かが言い募るのではないか。この「朽ちていった命」を見返していると、そんな思いにとらわれる。事故原因は核燃料の加工工程において、JCOが事故防止を重視した正規のマニュアルではなく「裏マニュアル」を作成して作業を行うなどの杜撰な管理を行った上、事故前日より作業の効率化を図るためその「裏マニュアル」からも逸脱した手順で作業を行っていたためであった。事故当初JCOは事故収束に取り組まなかったが,会社は上から言われ社員から選抜隊が組まれた。そして収束作業に取り組み、何とか収束に向かった。この事故は刑事裁判も行われ、JOCと被爆した社員が有罪判決を受けた。この社員はグループの長と言うことらしいが、これは大内さんにも責任の一端があると言うことか。今、国は原子力政策を大転換して、再稼働、新設するという。岸田首相ではどうにもならないのだろう。でも聞く力はあるというのだから、岸田首相にはせめて「朽ちていった命」を読んで大内久さんの無念を想い、関係者の声を聞き原子力をどうするのか考えてほしい。

                                 参考文献    「朽ちていった命」

                                  NHK「東海村臨海事故」取材班

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