清廉潔白な木川田一隆の生き方 

世相

  財界の良心と呼ばれ、率先して企業の社会的責任を唱えた木川田一隆について考える。

木川田は福島県出身で東京電力に入り「電力の鬼」松永安左エ門に師事し、その後の財界で活躍をした。経済同友会代表幹事に就任すると、業界の協調的競争を訴え「産業問題研究会」を創設し、国の介入に危機感を持ち、企業の社会的責任を説き「産業問題研究会」は「財界参謀本部」などとも呼ばれ、新日本製鐵の合併でも一肌脱いだ。日中国交回復にも尽力し、思い出すのは市川房枝に言われ、財界の政治献金を取りやめたことだ。あげればきりがないが,力のある思慮深いリーダーだったと思う。今問題になっている政治資金の問題についてはどのような発言、行動をしただろうか。ただ原発については「原子力は絶対にだめだ。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」と真っ向から反対していたのにもかかわらず、何故か、豹変して1Fを大至急立ち上げた。その背景は何だったのであろうか。

 1883年(明治16年)にエジソンが電燈を実用化してからわずか4年後に日本でも電力会社が設立され、日清、日露の戦争を経てその広がりは飛躍的になり1926年(昭和元年)には87%の家庭に電気は普及した。工場動力源も明治中期は蒸気機関が主だったのに、大正初期には電気がその割合を逆転するように伸びていった。その中でかなりの競争が行なわれ、電力業界は国民から不信を抱かれるようになり、電力の国営化の要望が彷彿と湧き上がる。第二次大戦前、電力を国家が管理されるようになったのは、軍部が戦争のために接収したように思っていたが、実はそうではなかったらしい。電力業界は寡占化した大企業の過当競争の混乱によって国民の反感を買い、世論が国有化を後押ししたようである。そして1939年、国家総動員法の成立と前後して電力国家管理法が国会で決定して電力は国有化された。しかしこの国家管理はうまくいかずに、国家のさらなる統制、制限を生んだだけに終わり、第二次大戦の敗北へと流れていた。戦後、電力を9分割案で民営しようとする松永、GHQは民営と発送電分離、国(与野党とも)は電力事業の国営化を、官僚を巻き込んで画策したようだ。松永や木川田はこの電力の自由過当競争そして国家管理の両極の欠点を知り尽くした結果、電力の国家管理を防ぎながら安定した企業経営を目指した。皮肉といおうか、日本の原子力推進、反対の相反する運動がいずれも1954年3月2日を基点としてスタートしているのである。そのころ副社長だった木川田は就任したばかりの気鋭の企画課長成田浩に「わが社も原子力発電の開発に着手すべきだ」とせめたてられていた。成田はアメリカから取り寄せた数多くの資料を木川田に示して、「早晩、必ず原子力時代がくる。そのために一刻も早く開発体制を確立するべきだ」と執拗に木川田を口説いた。成田は、夕闇が濃くなる副社長室で、電燈をつけないまま、何時間も木川田と討議したことを覚えている。木川田は、電気がもったいない、といって、普段でも、よほど暗くならないと部屋の電燈をつけなかったのだ。「原子力はダメだ。絶対にいかん。原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない。」

 成田が、言葉を尽くして説得しても、木川田の態度は変わらなかった。暗がりの中で、木川田がまるで自分自身に言って聞かせるように、「原子力はいかん」と、何度もつぶやいているのを聞いて、成田は、あきらめざるを得ないと思った。ところが、「原子力は悪魔のような代物」だといっていた木川田が、ある日、突然、成田を呼んで、「原子力発電の開発のための体制づくりをするように」と命じた。豹変である。何が、一体、木川田の姿勢を変えさせたのか。東京電力の社長室に原子力発電課が新設されたのは1955年11月1日。なぜ、木川田が「悪魔」と手を結ぼうと豹変したのか、その本意は、木川田を口説いた当人の成田でさえ「わからない」のだから捉えようがないが、その翌年1956年に入るや正力松太郎原子力委員長が陣頭に立って、第一号大型発電用原子炉導入の動きが、俄然活発になるのである。中曽根康弘も積極的に動く。この第一号大型原子炉こそが、イギリスのコールダホール型炉で、その導入をめぐって「国家対電力会社の遺恨試合、泥仕合」がくりひろげられるわけだ。あるいは木川田は、正力委員長などの動きをいちはやく察知して、”戦争”に参加する資格、権利を得ておこうと判断したのではなかろうか。木川田が電力の国家支配に対しての対応策としてゼネラル・エレクトリック社の加圧水型原発を取り入れた。というのが田原総一朗の説である。現実との狭間に苛まれた苦渋の決断だったと思う。しかし木川田に1点曇があるとすれば、この原発であろう。

「協調的競争の名の下」に過当競争を戒め、さらに「人間尊重の社会」を、石油ショックの直前には、「起業と社会の処置の発想」を捨て、「起業と社会の一体化」を標榜し「経営者の社会的責任」を問うた。今の財界人は自分の財をなすことが大事で、豪邸に住んでいるのだろうが、国や社会のことは二の次で,それで平然としている。何とも情けない。学生時代過ごしていたそばに、木川田一隆の住居があり、それは質素なものだった。とても東京電力の,財界のトップの家とは思えない建物だった。その住居からも木川田一隆の人となりが伺われる。 生前「勲章を欲しがるのは老害の証拠」と語り、叙勲を拒否した。この事も住居から窺い知れる。彼の生き様は国家の違法な介入に反対をし、企業の社会的責任を考え、国家の本当の在り方を提唱していたように思う。私も今まで色々な人間を見てきたが、上の言うことに、是非をはっきり言う人は少なかった。上の言うことには,どんなことにも、唯々諾々と従う。これはと思う人も、いざという時、期待外れなことが多かった。何事も事なかれ主義で、自分を大事に生きているように見えた。意地がないのかと,内心怒りを覚えた場面も何度かあった。それもしょうがないのだろうが。しかしこれからは国内情勢、国外情勢が難局を迎えるに当たり、国を引っ張る人間には清廉潔白で何事にも筋を通し,誰にもはっきりものを言うことのできる木川田一隆のようなリーダーが必要だ。しかし残念ながら、今この国には人がいない。

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