スバル360

家庭

  父は村で一番早く車を購入した。決して裕福でないのに、新らしもの好きで、購入した車はスバル360であった。写真にも凝っていて、現像室を家に作るなど、それは度を超していたと思う。家計を預かる母の苦労は大変なものがあったと思う。写真機も高価なものを購入していた。写真屋さんが驚いていた品物であった。テレビがでれば、これも村で一番早く購入して、平成天皇の結婚式の模様を見ようと村の人が、我が家に集まったのは鮮明に記憶している。録音機も誰よりも早く購入したがあまり利用はしていなかった。ただ、お寺さんが来て、お経を上げてくれていた時、子供達にお経を録音するように言い、私たちは隣の部屋で録音した。私たちは録音されているか確かめるために再生したら、お寺さんがまだいるときに流れてしまった。お寺さんは嫌な顔をして帰られた。以後お寺さんは来られなかった。レコードプレイーヤーは自分で作り、大きなアンプをこれも自分で作り、日曜の朝コーヒーを飲みながら、クラシックを聴きながら、悦に入っていた。そんな色々な、ものの中でも、やはり車は特別で、家族をドライブに誘うが,姉たちは嫌がり、私と母が行くことになる。当時オートバイの免許で、車の運転が出来、最初の運転で前進するのが、後進して急な山のようなものに、後ろ向きに乗り上げた。アクセルとブレーキを間違えたのである。運転に慣れない父のスバル360に家族は乗るのを嫌がった。5月連休の寒い日、ドライブに行くと言い出し、姉たちは家に残り、父、母、私の3人で寒い中、海辺で震えながら昼食を取ったのは苦い思い出である。車の修理も業者に持ち込みながら、やり方を聞くと家に持ち帰り自分でやる始末であった。車の塗装も自分でやっていた。板金もやっていた。私は何度も近県に連れて行かれた。道に迷い、段々暗くなり心細くなったり、海辺を走っていて、道が高潮で海水に飲み込まれそうにもなったり、怖い経験は何度かあった。極めつけは2つある。1つは十字路で止まらず突き抜けた時である。ブレーキが効かなかった。怖かった。これは業者に任せたと思う。もう一つは助手席に乗っていた時、ギイギイという音がして、床が抜けたのである。腐食していたのだ。ずるずると走って止まった。これは業者に頼んだ。後は殆ど自分でやり、もはやスバル360と言うより、別の改造車であった。父は思う存分楽しんだであろうと思う。車は最後まで最初のスバル360であったが、最後は姿を変えた別の車であった。

タイトルとURLをコピーしました