松前重義

人生

 熊本県生まれ。旧制熊本県立熊本中学校から熊本高等工業学校を経て、東北帝国大学工学部電気工学科を卒業する。この期間柔道に熱中する武道少年であった。逓信省に技官として入省し、無装荷ケーブルなどを発明して通信技術の進歩に貢献した。この時内村鑑三の聖書研究会に顔を出している。松前の三男仰(元社会党代議士)は「松前の基本的になっている考えは」と問われ「それは内村鑑三の影響でしょう。キリスト教徒と言うより人道主義の世界観を持った事だと思います」と答えている。内村の『デンマルク国』の話に感激し、デンマーク型の国民高等学校教育に共鳴をし「教育が人間を改造し、その人間が作った理想の国作り、それが原点である」と、戦後も繰り返し述べた。プロシアとの戦争に敗れ、疲弊した国を教育によって再興させたデンマークの精神的支柱だったニコライ・フレデリク・セヴェリン・グルントヴィを知り、松前が提唱するフォルケホイスコーレ(国民高等学校、国民大学とも訳す)を視察に1934年、デンマークを訪問する。1932年『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』の論文を発表する。さらに1935年この実用化に成功をしたことから電気学会から少額祝い金1000円を貰う。すぐに自宅近くに望星学塾を作り、塾生を募り持論の化学技術論を説いたという。前出の松前仰は、早稲田大学理工学部を出てNHKに入り、ここで宇宙衛星研究者になっているが、その方面では知られた存在だ。「ひいき目に見るのではないが、無装荷ケーブルははっきり言ってノーベル賞ものだと思う。確かあれは特許を取っていないはずです。この発見は世界のもので、自分一人のものでないと考えたように聞いています」と語っている。

1932年(昭和7年)に「増幅器などを使用して装荷しないケーブルを利用すれば、高効率で、遮断周波数は存在せず搬送を利用した多重化にも有利である」とした「長距離電話回線に無装荷ケーブルを使用せんとする提案」を発表し、小山 – 宇都宮間で多重電話伝送を実験して良好な結果を得た。のちに「当時の主流に異を唱える主張で、勇気を要とした」と述べている。1937年(昭和12年)に満州国の安東と奉天間を無装荷通信方式で長距離電話通信が成功し、1940年(昭和15年)に東京と新京間で全長3,000キロメートルの直通電話が開通した。日本電気の小林宏治は「松前さんはとにかく国産化で行うと言って、我々に海外技術は一切使うなと厳命しましたよ。それ以来我々も研究を続け、私自身百以上の特許をとったね。松前さんは憂国の士、憂国の侍だった。あの人は宗教心も篤く、それを化学と結びつけた」と語っている。

1937年(昭和12年)11月に『無装荷ケーブルによる長距離通信方式の研究』で東北帝国大学より工学博士の学位を授かる。当時は社会の指導者として法学部出身者を最優先する風潮があり、技官より文系出身者を優位とみなす逓信省の組織構造にあたり、新体制運動へ傾倒する。1940年(昭和15年)に大政翼賛会が発足すると、有馬頼寧に乞われ総務局総務部長に就任するが、主導権を争う内紛から辞表を求められて辞任する。1941年(昭和16年)に逓信省工務局長に就任する。太平洋戦争開始後の1942年(昭和17年)に航空科学専門学校を、1944年(昭和19年)に電波科学専門学校をそれぞれ創立する。日米開戦後に日本の生産力はアメリカ合衆国に遠く及ばない現実を知り、それを各方面へ報告した。1943二は海軍首脳部の前で講演をした。このとき東条内閣の政策は非科学的であり、軍需生産計画もでたらめだと強く非難したという。それが東条の怒りをかい勅任官(天皇が任命する高級官僚)でありながら二等兵として召集されて1944年(昭和19年)に南方戦線へ送られた。マニラでは南方軍総司令官寺内寿一元帥の配慮により、軍政顧問として勤務して無事に復員し、のちに技術院参技官として終戦を迎える。 松井政吉は「東条がやったんです。自分に刃向かったので、このヤローとなったんでしょう。いくら勅任官だって、昭和天皇はよかろうという以外なかっただろうね。昭和天皇に東条を止める力があれば、戦争だってもっとかわっていたはずです」と語る。確かに陸軍の人事当局はこの時無謀なことをしている。松前は当時42歳、彼だけを召集するわけに行かず、この年代の重要職にあるものにも召集令状を出して松前だけを特別扱いしたわけでないと仕立て上げた。そのため老いた兵士が戦死した。このことを松前は「本当にもうしわないことをした」と家族に漏らしたという。

戦後は逓信院総裁に就任するが、1946年(昭和21年)4月に辞任して9月に公職追放となる。松前はこれには大いに怒る。松井政吉は「松前さんはね、はっきり言えば民族主義者なんだ。肌合いは右翼的だった。共産主義は大嫌いだった。アメリカには民族なしと言う理由で好きになるはずはなかった」とかたる。松前には自分に似不当な仕打ちをした個人、団体を決して忘れず、憎む性癖があったのではないか。東条の陸軍、GHQのアメリカは許さない。1950年(昭和25年)10月13日、公職追放解除の閣議決定を受けた後、1952年(昭和27年)の総選挙で社会党右派から衆議院議員に初当選して以後6回当選する。中道保守系の有力議員として社公民路線を提唱した。公明党の矢野純也、民主党の佐々木良作と「新しい日本を考える会」を設立して全国を遊説して回った。

設立した航空科学専門学校と電波科学専門学校を統合して旧制大学東海大学となり、学制改革に伴い新制大学東海大学となる。自らは一官僚であり、資産を持たない松前は借入金や寄付だけで大学建設に挑んだため、大学はたびたび財政危機に陥り、松前も苦労が絶えなかった。しかし、事業家としての才にも恵まれた松前は斬新な学部の設置や、学校法人のM&Aなど従来にはない学園経営を展開し、東海大学を日本有数の大学に育て上げた。また原子力基本法制定にも尽力し、東海大学工学部に原子力工学専攻を設置している。一方で、日本を戦争に導いたのは陸軍ではなく、東大法科卒の官僚たちだと考えていたことから、1985年まで法学部を設置しなかった。

松前が自ら注力した日本初のFM放送局であるFM東海の処遇で、郵政省と争った。

ソ連政府の提案によるソ連と東欧との交流組織「日本対外文化協会」(対文協)を石原萠記、松井政吉らとともに1966年(昭和41年)に設立して会長を務めた。ソ連初の野球場としてモスクワ大学松前重義記念スタジアムの建設に尽力するなど、国際交流事業を展開して各国の政府機関や大学から勲章や名誉博士を受けた。

日本柔道選士権大会で優勝歴がある兄の顕義に影響されて熊本高等工業学校で寝技主体の高専柔道に励み、1969年(昭和44年)に全日本柔道連盟理事、1979年(昭和54年)に国際柔道連盟会長にそれぞれ就任し、1983年(昭和58年)頃から全日本学生柔道連盟陣営として講道館と対立した。講道館が旧来の世襲を引き継ぎ、段位も自らのものしか認めないという在り方に固執することに激しく反発をした。

三池工業高校を甲子園で優勝させた手腕を見込み、原貢監督(原辰徳の父)を東海大相模高校の硬式野球部監督に招聘した。

1991年(平成3年)8月25日、89歳で死去。

2022年(令和4年)、武蔵野グリーンパーク野球場建設に携わったことや首都大学野球連盟設立により初代会長を務めたこと、また旧ソビエト連邦時代にモスクワ大学に野球場(松前記念スタジアム)を寄贈するなど野球界への貢献が評価され、2022年の野球殿堂特別表彰者となった。6月12日に明治神宮野球場で開催の第71回全日本大学野球選手権大会決勝戦の試合前に殿堂入り表彰式が行われた。

  松前が終生話さなかった肩書きが3つある。ソ連との民間交流を図る日本対外文化協会会長、武道館館長、それに東海大学総長の3つである。

  松前重義はその心根においては一昔前のタイプだ。自分お好きなことに没頭し、人より一歩前に出たがり、そして自分に口当たりの良いことを言う人を好み、気にくわなければ怒り、可愛いとなれば目の中に入れても痛くないし、そしてことある毎にパーテイを開く。そこでは、各界の著名人が「世界の松前さん」と持ち上げると、相好を崩して喜ぶ。何とも稚気にあふれる人間像である。

                                                                    参考文献

                    「昭和戦後史の死角」  保阪正康

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