反骨のルポライター・竹中労

世相

 竹中労は、日本のルポライター、アナーキスト、評論家であった。。東京都出身。甲府中学(現:山梨県立甲府第一高等学校)中退。「夢野京太郎」「ケンカ竹中」「反骨のルポライター」などの異名を持ち、芸能界や政界に斬り込む数々の問題作を世に送り出した。竹中の年表を載せる。これだけで竹中労の人となりが伺われる。

 1945年 – 甲府中学(現:山梨県立甲府第一高等学校)で校長退陣を求めてストライキを、初鹿野宏らと指揮する。県庁へのデモ行進、学校占拠を続け、校長が辞意を表明するに至るも、退学勧告を受ける。

1947年 – 日本共産党に入党。その後、山谷や横浜に住み込み肉体労働に従事する。各地で労働組合活動に取り組み、何度も逮捕される。

1952年 – 甲府刑務所に収監される。共産党からは党員資格を剥奪される。

1953年 – 釈放された後に、芸能を通した活動を始める。

1959年 – 「ルポライター」を名乗り、「女性自身」のライターとなる。

1961年 – 党の内部変革を図り日本共産党に復党。

1965年ごろから「世界革命」を志し、アジア各地や、キューバ、韓国、パレスチナなどをたびたび訪れる。

1966年 – 「東映俳優労働組合争議」を支援。

1967年 – 映画「祇園祭」の制作をめぐり、日共京都府委員会と対立して、党を除名になる。

1968年 – 山谷解放闘争を支援。『タレント帝国』で渡辺プロダクションのテレビ界の支配を告発。

1969年 – はじめて沖縄へ渡り、琉球独立党を支援する。また多くの島唄のミュージシャンたちと交流し、イベントの構成を行っている。同年、『週刊明星』連載の「書かれざる美空ひばり」における「ひばりの歌声は差別の土壌から生まれて下層社会に共鳴の音波を広げたこと、あたかもそれは、世阿弥、出雲のお国が賎民階級から身を起こした河原者の系譜をほうふつとさせる。……ひばりが下層社会の出身であると書くことは『差別文書』であるのか」との文言が部落解放同盟に問題視され、糾弾される。この糾弾内容に激怒した竹中は、部落解放同盟に血闘を申し込んだ。このとき竹中は、

「集英社に押しかけた代表(解同か)のひとりは、掌をひろげて、「指が六本あるか!」としきりにいうのでした。何をバカなと、小生は虫酸のはしる思いがしました。この男は、部落解放運動半世紀の歴史を、最低の次元にまでひきずりおろしてみせたのです。おまけに、顔をなでて、「クロンボみたいに黒いか」とまでいう。黒人なら差別されて当然、とでもいうつもりか。このような愚か者が衆をたのんで出版社をおどし歩く、いったいこれが父親を感奮させた「水平社」のナレの果てかと、情なくてたまりませんでした。」と、記している。

   1975年8月、新宿コマ劇場にてのイベント「のんすとっぷ24時間」で台湾・沖縄・韓国の人々から戦争告発発言があったのに呼応し、浜田幸一や中山正暉に「バッジのおじさん、恥ずかしくないか」と野次を飛ばしたところ、浜田が怒って「全然恥ずかしくないな。軍閥と自民党は関係ない!」「バッジをつけているのが恥ずかしいなんて言ったやつ、出てこいよ、おまえ」と反駁。竹中は「おまえ呼ばわりされる覚えはないのだ」と応じ、「おい、ハマコー、やるかァ!」と浜田に迫ったため、司会者に制止されて事なきを得た。これについて竹中労は後年、「つかみ合いを演じたハマコーには、ちょい親近感がある」と漏らしている。

 『週刊読売』掲載「エライ人を斬る」コーナーにおいて佐藤寛子(佐藤栄作夫人)を取り上げ、”庶民ぶるネコなで声の権勢欲夫人”と揶揄。佐藤側から名誉毀損で訴えると脅された『週刊読売』編集部は、1970年9月、一方的に連載を中止。激怒した竹中は佐藤寛子および務臺光雄読売新聞社社長(当時)を相手取って500万円と謝罪文掲載を要求する訴訟を東京地裁に提起。8年後、読売側が謝罪文(公表しない条件)と慰謝料を支払い、和解が成立した

  1984年から国連ユニセフ親善大使に任命された黒柳徹子が、貧富の差が激しかったアフリカへ慰問に出向いた際、豪華に着飾って現地に赴いたことから「慈善行為にあるまじき格好、見当違いも甚だしい」と痛烈に批判した。この後、竹中は黒柳がアフリカに出向く度に幾度も黒柳に対し、批判を繰り返している。

   あるフリーの編集者が語る

  「僕は労さんの実際の喧嘩は見たことがないんですが、70年代に労さんの若い衆として行動を共にしていた人の話では、とにかく恫喝する声の迫力が凄まじくて、気迫で圧倒する喧嘩だって言ってましたね。たしかに僕も、80年代後半、ある勉強会で労さんが当時の『朝日ジャーナル』編集長だった伊藤正孝さんの若干失礼な質問に対して、凄まじい啖呵を切るシーンを見ています」

なるほど。でもそれでは、「ケンカの竹中」とは口喧嘩の凄みを表す異名でしかなくなってしまうような。

「いや、実際に強かったと思いますよ。70年代の労さんの写真を見ると、往年の悪役プロレスラーのディック・ザ・ブルーザーみたいな体をしてる。そういえば、労さんは力道山とも喧嘩になりかけたらしいんです」

ええっ!? それはあり得ないでしょう。戦後を代表するプロレスラーで、不意打ちとは言え木村政彦を圧倒した力道山に勝ったとなれば、これは物書き最強どころか、日本最強になってしまいます。

「これは労さん自身がプロレスについてのエッセイで書いてるんですが、『ラテンクォーター』で若き日の労さんと勝新が飲んでたら、挨拶に来ないという感じで力道山がイライラしていた。それを見て、さすがの強気の勝新も『どうしよう』と不安顔。労さんは『気にしなさんな』と勝新をいなして、『そのとき私は、場合によってはやってもいいと胆を決めていた』とか書くわけです。労さんが言うには、『喧嘩は度胸の問題であって、体格や格闘技経験とは、紙一重に関係ない。いきなり睾丸を蹴上げるなり、ビール瓶で頭をカチ割るなりすれば、必ず勝つ』と」

喧嘩屋ならではの言葉という気はしますが、しかし相手は力道山ですからね。その場はどう収まったのでしょう。

「力道山は、労さんたちのテーブルにやって来て、一言、『オウ!』と凄んで帰っていったそうです。労さんにまがまがしいものを感じたのか、それ以上相手にする気がなかっただけなのか、わかりません。光と闇を同時にまとうヒーローだった力道山の魅力を、労さんならではの『芸能の感性』は当然理解していたと思いますが、夜の社交界で権勢を誇って荒れていた力道山を、苦々しく感じていたところがあったのかもしれません」

竹中労のリアル・ファイトを記憶している人、またそれについて書かれた文章はないのか、Fさんに聞いてみました。

「労さんは権力との闘争や体制側の人との論争がテーマなわけで、梶原先生のように自分の武闘について書く人ではなかったので(笑)。でも50歳くらいのときに、故郷の山梨でヤクザの親分をぶちのめして、『これで喧嘩一代の店じまい、土付かずでメモワールを残したい心境だ』と綴ったエッセイはあります。

それと、映画監督の足立正生さんが『映画/革命』という本で語ってるんですが、70年代初頭、労さんは沖縄のヤクザが本土の広域暴力団の傘下に入ることを悲しんでいて、足立さんと平岡正明さんを連れて、沖縄のある高名な親分と会ってるとき、『ヤマトの組の軍門に下りやがって、このクソ親父が』と言って、机をひっくり返したそうです」

それは凄い。しかし、そこまでのことをやって、どうなったのでしょうか。よく無事でしたね。

「足立さんは、労さんがいきなり派手な立ち回りをやるんで平岡も自分も驚いたと書いてましたが、たぶんその親分も、労さんが沖縄に対して並々ならない一体感を持ってる人だということは分かってたんじゃないでしょうか。そこは伝わっていたんじゃないかな」

なるほど。喧嘩でも言霊って大事なんですね。

竹中労の喧嘩屋ぶりを、意外な人が目撃していました。文学界の武闘派第4位にランクインした梁石日です。かつて人文系出版社に務めていたBさんが話してくれました。

「梁さんは1987年にリビアで開かれた『国際革命家フォーラム』というシンポジウムに、竹中さんと一緒に参加してるんです。他のメンバーは、元『楯の会』の阿部勉さんと、牧田吉明さん。中上健次さんも行くことになっていたそうですが、直前にキャンセルになったそうです。梁さんは『ワシがいるんで止めたんやないか』と言われてました。その旅には某キー局の撮影クルーが同行していたそうなんですが、パレスチナを弾圧しているイスラエル側の視点が番組でそれなりに扱われることが分かって竹中さんが激怒したらしい。

ディレクターに対して竹中さんは諸肌脱いで背中の刺青を見せて、『てめえ、砂漠に埋めるぞ』と、凄い見幕だったそうです。梁さんは『刺青見せて怒るなんて、遠山の金さん以来や。迫力あったよ。ワシもあそこまでようやらんわ』と言ってました。竹中さんは、梁さんに対してはとても紳士的で、いろいろと繊細に気づかってくれるかただったそうです」

というわけで、竹中労の知られざる「喧嘩伝説」を紹介してきました。話を聞いていると、口喧嘩も肉弾戦も、同じ喧嘩のうちではないかと思えます。竹中労の言葉には、それだけ本当の怒りがみなぎっていたのでしょうし、肉体感があったのでしょう。それはルポライター・竹中労の原点のような気がします。

  次に鈴木邦男の文を載せる。

  10月15日(土)、甲府に行ってきた。甲府市の桜座で、〈竹中労 没後25年、今ふたたび〉が行われた。竹中労にゆかりのあるひとたちが集まって、思い出話をし、ひっそりと追悼をする。そういう集まりだと思っていた。そんな、ひっそりとした、しめやかな集まりかと思っていたら、とんでもない。凄い集まりになった。会場の桜座には続々と客が詰めかけ、満員。「何人くらい入ったんですか?」と劇場の人に聞いた。地方の劇場だ。40人か50人で一杯になるだろう。元お相撲さんの藤野さん。麻生先生。生島隆さん、そう思っていたら、何と「200人、入ってます」と言う。驚いた。そんなに人が入ったのか。ソッと覗いてみたら、本当だった。それに中は広い。2階席もある。昔の芝居小屋のような造りになっている。ウアー、ここでトークをやるのか! と思った。

〈竹中労 没後25年、今ふたたび〉は、二部構成になっている。

第一部は竹中さんが作った映画「戒厳令の夜」の特別上映会。(13:30~15:45)。

第二部は「労を偲ぶトークの集い」(16:10~18:30)。

私らは午前9時新宿発の電車に乗る。11時に甲府に着く。平田君や寅ちゃん、瀧沢さんなどが一緒だった。死刑を考える国際シンポジウム。10/14 死刑を考える国際シンポジウム。10/14電車に乗ったら、作家の武田砂鉄さんがいた。和歌山から来た下中さんもいた。甲府の駅に着いたら、「劇団再生」の高木さんもいた。始まるまで2時間もあるので、まず昼食。駅のそばのレストランで信州ソバを食べる。そして車で桜座へ。ここでは有名な劇場らしい。すぐに分かった。小さなライブハウスかと思ったら、なかなか立派だった。大きい。毎日、芝居やコンサートが行われている。主催者の竹中紫さんが迎えてくれる。竹中労さんの妹さんで、ここ甲府の湯村の杜で「竹中英太郎記念館」の館長をやっている。

イタリアの国会議員も イタリアの国会議員も、竹中英太郎は有名な画家で、労さんのお父さんだ。その記念館には何度も行ってる。英太郎さんの資料と同時に、労さんの資料も大量に展示されている。「竹中英太郎・労記念館」という感じだ。そして、今日のトークの司会をやる金子望さんに会った。竹中紫さんの旦那さんだ。竹中英太郎記念館主宰だ。

トークのゲストの小浜司さん。小泉信一さんにも紹介される。小浜さんは沖縄音楽プロデューサーで、島唄案内人だ。労さんは沖縄には何十回も行っている。島唄を愛し、絶賛し、本土に紹介していた。沖縄は東京に次ぐ拠点だった。袴田秀子さん 袴田秀子さん、そこで、労さんの活動を手助けしてくれたのが小浜さんだ。病気の時も、看護婦をつけて沖縄に行き、そこで倒れた。寝たまま飛行機に乗せられ、東京へ。そして入院し、そのまま帰らぬ人になった。それだけ沖縄を愛していた。沖縄についての本も沢山ある。又、小泉信一さんは朝日新聞編集委員だ。若い時から労さんに心酔し、労さんのことを何度も書いた。

労さんは一匹狼のルポライターだった。大マスコミから見た一匹狼はどう映ったのか。それを語ってくれた。トークのゲストの人に挨拶していると、そこへ、トコトコと入ってきた人がいる。保坂展人さんと、あっ、樹木希林さんだ。「初めまして」と皆が挨拶している。私も初対面だ。

「内田裕也さんにはよく会ってます。お世話になってます」と私は言いました。

内田さんは旦那さんだ。この前は「徹子の部屋」に2人で出ていた。面白い夫婦だ。

そうか、希林さんが来るので満員になったのか。

「では、打ち合わせをしますので」と金子さん。近くの食堂へ行く。ゲストの皆で、食事をしながら打ち合わせだ。「私は食べてきましたので」とコーヒーをもらう。他の人たちは食事をする。第二部のトークで、どんな話をするか。大体の打ち合わせをする。

②希林さんは面白い。大活躍だ。司会の塩田祐子さん

希林さんは、大女優だし、皆、初めは緊張していた。でも、とっても気さくな人だ。

労さんの思い出も楽しく語ってくれる。初めて聞く話ばかりだ。希林さんにかかっては、タブーも何もない。ズバズバと言う。労さんとも初めは、ケンカから始まったという。

労さんが劇団に抗議してきた。劇団の人は皆、恐がって逃げてしまう。当時、下っ端だったが希林さんが、相手をして、反撃した。恐いもの知らずで労さんとやりあった。それが気に入ったと言って、抗議者の労さんと仲良くなった。平田竜二氏と対談。

「じゃ、それは本番のトークの時にたっぷりと聞かせて下さい」と司会の金子さん。

「では、桜座に戻りましょう」となった時、希林さんが思わぬことを言う。

「この前、水道橋博士に会ったので、今日のことを話したら、ぜひ聞きたいって。車を飛ばして来るから、第二部には間に合う、と言ってましたよ」。凄い。「じゃ、トークにも出てもらいましょうよ」となった。

第一部の開始直前に、桜座に戻る。満員だ。

「希林さん、サインして下さい」「一緒に写真を撮って下さい」と声をかけられる。いやな顔もしないで、全て応じている。200人も入った客席では、スクリーンを下ろして第一部の映画が始まる。30年以上前の映画だ。五木寛之原作・山下耕作監督。竹中労監修。又、若松孝二さんも製作で入っている。豪華だ。南米コロンビアでの長期ロケもあったし、随分と金のかかった映画だ。又、出演者も、鶴田浩二、伊藤孝雄、樋口可南子、長門勇、伊藤雄之助、と豪華だ。私は封切られてすぐに見た。そして今日で2回目だ。我々ゲストは、芝居小屋とは別の部屋で、スクリーンで見た。初めて見る人もいるが、大体は2度目、3度目の人たちだ。映画が終わり、10分の休憩のあと、16時10分からトークが始まる。

トークのゲストは5人。樹木希林さん、小浜司さん、小泉信一さん、竹中紫さん、そして私。司会は金子望さんだ。

「では始めましょうか」と金子さんが言ったところで、水道橋博士が到着。「ぜひゲストで」とお願いし、イスを増やす。水道橋博士は、昔から竹中労ファンだ。労さんの『ルポライター事始』を読んで、「よし、俺もルポライターになる!」と決意したという。それが中学生の頃だ。そして、労さんの本を読みまくった。労さんの思い出も語ってくれる。

博士は50才だという。「我々の世代は知ってるが、若い人たちは知らない。もっともっと知ってもらい、読んでもらいたい」「そのためには…」という話もする。博士は50才か。知らなかった。若々しいから30代かと思っていた。

武田砂鉄さんも、やはり労ファンで、労さんを継ぐ人だ。でも博士より20才下だから。

そうか、昼間たかし君もいた。彼も竹中労に心酔し、文体も真似ている。最近出した本を見ても、「竹中労だ」と思った。武田、昼間氏だけでなく、物書きを目指す人は、皆、竹中労だ。でも、大マスコミはどうだろう。大新聞社では「竹中労なんか」という空気があるのではないか。「普通のルポライターとは違う」というものがあるのではないか。でも、文章では書けないが、「竹中労が好きだ」という人は多いという。本を読んで、文体を真似たり、影響を受けてる人は多いようだ。小泉さんも朝日に最近、「竹中労ふたたび」という記事を書いたという。労さんは「偉い人を斬る」という連載をやり、佐藤栄作首相の夫人を斬りまくった。又、首相、共産党委員長なども斬りまくり、大変な騒ぎになった。裁判沙汰になったことも多い。そんな札付きの「ルポライター」は、今なら、どこも使わないだろう。まず、企画会議の段階で断られる。「何かあったら大変だ」という理屈で、まだ、「何も起こらない」のに。でも、いつか抗議が来たら困る。それで、こういう危ないライターは使わない。それに、こうした傾向は今の方が強い。ネットやメール、携帯で、即、抗議出来るからだ。すぐに、自由に、自分の考えを言える。万人に通じる。これでこそ、「言論の自由」かもしれない。でも、そのために潰されていった「言論」も多いのだ。希林さんも、こうした芸能界、マスコミの閉鎖性についても大いに語ってくれた。この日は、豪華なゲスト陣で、ここに集まった200人の皆も堪能していた。質問も出ていた。又、紫さんが「労さんの同級生です」などと紹介し、話してもらった人も。労さんの子供さんも来ていたようだ。「労さんの故郷」ならではだ。18時30分に終わり、そのまま別室で懇親会。多くの人が残って参加していた。東京から来た人も多かった。北海道、九州から来た人も。中には、「コロンビアから来ました」という人も。南米から、昨日までコロンビアにいたんですが、「竹中さんを偲ぶ会があると聞いて、日本に来ました」。これは凄い。大盛会だった。そして、最終の新幹線で帰りました。希林さんたちは甲府で泊まる。

あっ、そうだ。第二部では私も話をした。

「右翼」という枠を壊してくれたのが労さんだ。労さんは文章もうまいし、話すのもうまい。両方うまい人はなかなかいない。その点、労さんは天才的だった。左翼的な人だったが、それまで会った右翼の人たちよりも、信用出来ると思った。文章は激しいが、本当は心の優しい人だった。そばにいてホッとする人だった。右も左も関係ない、と言い、実際に実行している人だった。才能がありすぎて、文章だけでなく、音楽、映画なども手掛けた。世に受け入れられず、失敗し、大変な借金を抱えたこともある。家族にも迷惑をかけた。そのお詫びの気持ちもあったのだろう。妹の紫さんが栄養専門学校を受ける時は、「おれが書いてやる」と、提出するレポートを代筆してくれた。ところが、余りに文章がうますぎ、又、栄養学とは関係のない話なので、落ちてしまったという。「竹中労の文章を落とすのかよ」と思ったが、栄養学のレポートには合ってなかったのだ。「じゃ、竹中労全集を作って下さいよ、とお願いした。その中に、専門学校に出したレポートも入れて下さい」とお願いした。そうだ。今も竹中労を読んでる若者は多い。「偲ぶ会」には、こうして200人以上が集まる。じゃ、半年にいっぺんでも、「竹中労を語る会」をここでやりましょうと提案した。皆も堪能しただろうが、我々ゲストも堪能した。私も多くのことを学んだ。30年分くらい、勉強したし、教えられた。そう思った。

                               引用文献       武田砂鉄

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