私は、中学校は隣町の国立大学の付属中学校で、親戚の家に下宿して通った。母から離れられない,甘えん坊の私に父が大人になれと、やったのではないかと思う。下宿では、2階のお婆ちゃんの部屋で過ごし、お婆ちゃんの脇で寝ていた。中学校では心細かったが間もなく友人も出来、思ったより早く馴染んだ。しかし、親戚とはいえ下宿は、細かいことに、あれこれと気を遣った。中でも夏に出される鯨の味噌汁は閉口した。吐き出しそうになるのを我慢して飲み込んだ。自分の家では、我が儘が許されたが、他人の家では親戚とはいえ、我慢した。「他人の飯」とはこのことかと、今は両親に感謝している。
学校では、私は吃音で、先生に当てられても、なかなか答えられなかった。中でも英語は順番で音読されていたが、私は時間を取るので、終には、飛ばされた。助かったと思う反面悲しく、恥ずかしかった。中学3年の模擬試験で、教務室に呼ばれ担任から数学が満点だったことを褒められたが、英語は零点で時間をかけてたっぷり絞られた。英語の試験では2択の問題もあったが、全部はずれた。授業で当てられないので、全く英語の授業は聞いておらず、この結果は当然のことである。英語0点で高校もよく入ったと思う。中学の時、理科の化学に凝った。化学薬品を買ってきては、下宿で実験を繰り返した。ロケットを作りたいと思い、小さなものを発射したら、ベニヤ板を突き抜けた。達成感があった。今なら周りの人から警察に通報がいっただろう。その時は下宿にはお婆ちゃん一人だった。他の人は農作業にでていた。だから自由に放課後の、下宿の庭を使用していた。またとんでもない失敗談もある。ある物質を作るために、ニトログリセリンが必要になり、いつもの薬局に行って購入しようとしたら、薬局の人が驚き、私もその理由を理解した。謝罪をし、帰った。夢中になるとその一点に眼が行き、このようなことになるのだろう。その後水酸化ナトリウムを扱っている時火傷をして、その後は化学から遠ざかった。下宿から、私が何かおかしなことをやっていると実家に連絡がいった。猟師からは注意を受けた。姉から化学しか、やらないのかと言われ、色々な分野の本を読んだ。地元の図書館を大いに利用した。そんな本の中でも731部隊(石井部隊)の本は衝撃的で、載っていた写真からは目をそらした。島崎藤村の本を読み、学校を休んで小諸に言ってみたいと思ったことも、淡い思い出として残っている。その後、文部省唱歌で有名な高野辰之を調べて行くうちに、島崎藤村の飯山での問題行動(合宿に来ていた女子学生を、連れだし自分の宿に泊めたこと)で高野達之と論争していること知った。小説「破戒」も興味を失った。
土曜日実家に帰るのは、嬉しく楽しい気分で隣町から列車に乗ったが、日曜日下宿に帰る時は憂鬱で、落ち込んだ。下宿に帰ると午後3時で、お婆ちゃんが競馬を見ていた。昔のテレビで粗い画像であったが、お婆ちゃんは「馬の走るのは綺麗だ」と言っていたのをよく覚えている。時には月曜日の朝早く、学校に向かったこともあった。ある冬、雪が2m近く降って除雪車が通る道までの200mちかくの雪を、母が午前3時から起きて、雪を掘って父の車で送って貰ったこともあった。母の雪掘りは大変な作業であった。また一時期、私の様子がおかしいと思ったのであろう、母が、中学校の隣町にアパートを借り、近くの病院の看護婦として働きながら私と過ごしてくれた。母と一緒の生活は、私を落ち着かせた。中学校の頃は家族が恋しかった。中学校を卒業して、実家の側の高校に入学した。また知っている人の少ない、一人の学校生活であったが実家は何よりであった。