私の色々あった大学生活

人生

 私が入学した大学の時期は、学生運動末期の内ゲバが盛んな頃だった。学生運動に勧誘する者や、警察の公安も学内をうろうろしていた。公安は、初めは知らなかったが後から友人になった、運動家から聞いた。私は母からの仕送りで大学に来たので、運動には関心はあったが当然参加しなかった。入学した初めの授業は、授業料値上げ反対運動で騒然としていた。中核派、革マル派、民青など入り乱れて学内を荒らしていた。ある授業で、活動家が、授業ボイコットを叫んで、教室から学生を追い出していた。私は母一人の仕送りで学生生活を送っていたので、教室から出なかった。活動家の何人もが、「これは自分たちに関係ない後輩のための活動(授業料は我々の時は関係なく、後輩の時から値上げされる)」と、執拗に私を脅した。私は田舎の母を思い、「授業を受ける」とボイコットを断った。活動家も諦めて教室を出て行った。教師に残ったのは私一人、先生の来るのを待ったが、先生は現れなかった。

 その時の活動家に一人と、間もなく話し出し、議論するうちに仲良くなった。私が活動に興味を持ち、理解していることがわかり、一層仲良くなった。その彼が別のセクトに狙われた時は、私のアパートにかくまった。私のアパートは、皆でよく酒を飲んだり、麻雀をしたりと交流は深かった。友人をかくまった時も、アパートの仲間が皆で助けてくれた。アパートでは。始終麻雀が行われており、夜を徹して行われていたので、隠れるには格好の場所だった。アパートには、近くの飲み屋の人も出入りしていた。その中に、やくざな人もいて、私に「見ていな」といい、麻雀の卓に加わると、すぐ天和(てんほー)を上がって、私を見ながらにやりと笑った。アパートの仲間の妹が、アルバイト先の居酒屋からいなくなるということがあった。警察に届け出ても埒があかなかったのが、そのやくざの人が動いたら、東南アジアの方で見つかった。やくざの人いうのには、アルバイト先の居酒屋の主人が妹を売ったという。その主人がどうなったか知らないが、そのやくざは我々に何も要求をしなかった。

 酒は20歳から飲み出した。最初はビール2本が精一杯だったのが、直に誰よりも飲むようになった。酒は中学校の時、お婆ちゃんに連れて行かれた神社で飲まされた御神酒が、苦い物として悪い印象として残った。それが、その時からは信じがたい呑んべいになっていた。アパートの仲間と、あるやくざのグループが争いになりかけた時、私は「酒で決着をつけよう」と言った。やくざのグループの親分のような人が面白がって承知した。ウイスキーの一気飲みである。私は相手に合わせて飲んでいたが、相手は間もなくひっくり返った。私は飲み続けた。その親分には妙に気に入られ、よく飲ませて貰った。それを面白く思わなかった若い者達が、私をガード下に連れて行って殴ろうとした時、親分が現れた。若い者は親分にこっぴどく叱られていた。映画のような場面であった。親分からは、喧嘩は素人しては駄目だ、玄人とやれと言われた。素人は手加減を知らないという。玄人は、その加減を知っているという。下手な喧嘩で無用な怪我を負わせてムショに行くことの無駄を承知しているので手加減すると言っていた。また喧嘩が避けられない時は、腹を守れと言い、新聞紙を何重にも重ね腹巻きで覆えと言われた。すりの集団の話も面白かった。すりも商売で、生活がかかっているし、すりをしている一人を捕まえても、中には仲間がいる時もあるから、気をつけろと。後が怖いという。

 大学は雑然としていた。授業は、私が言うのは手前味噌だが、母を思い真面目に受けっていた。所が、私はある教授に何が原因か思い出せないが嫌われていた。必修のその科目は私にはやらないと、教授は言っていたそうだ。2年から初めて卒業の4年まで、その授業を受けた。3年の時、試験で4問のうち3問は完全に解け、1問少し怪しい所があったが正解に近かったと思う。でも落とされた。その時、勉強していなかった友人に1問見せてやった。彼はその1問だけで解答用紙を提出したが通った。カンニングがばれた訳ではないが、本当に嫌われたものと思う。ここまで嫌われたのだから、相当なことと思うが全く思い出せない。

 別の大学に通っていたアパートの友人が面白いことを話してくれた。その大学が単位修得は厳しく、単位を落として自殺した学生がいたほどである。その友人が、その大学でも、単位修得が難しい科目を、何の勉強もしないで通った話である。その友人が北海道旅行をしている時、その科目の教授と出会ったそうである。教授の脇には妙齢な婦人がいて、会釈をしてすぐ別れたそうだ。試験の時、一か八かの気持ちで、白紙の答案用紙の裏に、「北海道では御夫婦で楽しそうでしたね」と書いて提出したそうだ。皆で大笑いした。

4年の時のゼミは酷かった。他の3人はゼミに集中すれば良かったが、私は「絶対やらない」と言われた必修科目があった。Y先生の元に4人集まった。一人は私の友人の活動家、一人は音楽が趣味で殆ど勉強をしていなかった、問題用紙を見せた人。そして3人目が全国学生寮の組織のメンバーで殆ど大学にいなかった。ゼミは4人登録していたが実質3人で、私以外まともに準備をしてこなかった。だから毎回私が発表した。そのY先生が、私を嫌っていた教授を説得しものと思う。お陰で卒業できた。ゼミの4人も全員単位を貰えた。甘いと言うより、それぞれの学生の事情を察しながらのものと思う。Y先生には、皆感謝である。

 もう一人印象に残る教授がいる。コンパで飲んでいる時、飲んだら勉強は出来るかどうかの論争をした。私は飲んでも勉強できると、うそぶいた。その時出された問題は解けたが、若気の至りで、今思い出すと恥ずかしい。その教授の研究への姿勢を聞かせて頂いた。授業のない日は、家で研究に励んだという。朝起きると散歩をして、汗をかき朝風呂に。そして朝食を取り少し休み、研究に入るという。没頭すると昼食は抜いて区切りがつくまで続けるそうだ。まるで修行僧のような様子に驚いた。コンパでの議論を思い出したくない。繰り返しになるが恥ずかしい限りである。

 大学院も考えたが、これ以上母に迷惑はかけられないと、地元に就職をした。受けたところは、みんな受かって内定を貰ったとこへの謝りは疲れた。先に記したやくざの親分からも、来ないかと誘われたが、丁重に断った。就職を決めた地元にその親分の知り合いがいるから、何かあったら相談しなとまで言われた。大学生活は雑然としていたが、面白かったと思う。母には感謝である。 

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