財界総理石坂泰三がいたならば

世相

 東芝が上場廃止したことから石坂泰三について考えて、書いてみる。城山三郎の作品『もう、きみには頼まない』を参考にさせて貰う。石坂泰三は、どんな難題にも果敢に挑戦し、権力者にも屈しない気骨の人物であったが、しかし、彼の信条は「無事是貴人」であり、「何事もないのが最上の人生」と考えていた。一番の仕事は東芝の再建だったであろう。東芝はその前身である芝浦製作所と東京電気の時代から、アメリカのゼネラル・エレクトリック社(GE社)による資本参加と技術供与のもとで発展してきたが、戦争によって両社の関係は途絶してしまう。また、太平洋戦争末期の東京・横浜・川崎の空襲によって、主力工場が壊滅的な被害を受けた。加えて、戦後初期には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により労働組合の積極的な育成方針が採られたことで、労働組合の結成が進む。敗戦後の混乱した経済状況を背景に、賃上げ運動や人員整理反対闘争が激化するなか、多くの企業がそれらへの対応を迫られるが、東芝も例外ではなかった。石坂は、「私は東芝ノ再建問題ヲ次ノ四段階ニ考ヘテ着手シタ。」と言う。

第一段階 人員整理

第二段階 本社機構の改革及幹部の更迭

第三段階 経理面整理(資金計画)

第四段階 I.G.E.(GEのことか?)トノ交渉及調整

以上ノ計画ニ基イテ第一段階ノ人員整理ニ着手シタノハ七月ノ初メカラデアッタガ、コノ一番難事業トシテ世間ノ注視ノ的トナッタ整理モ存外順潮ニ運ビ、少クトモ三ヶ月位ハ相当混乱ヲ予想シテオッタガ、一ヶ月デ略見通シガツク程度ニ進捗シタ。昭和24年9月4日東芝争議を最初の仕事と考え行動に移った。 ここで人員整理を「一番難事業」としているように、石坂が取締役として東芝に入った昭和23(1948)年は、ストライキ等の労働争議が続発し、一部では暴力事件が発生するなど、労使間の対立が激しさを増していた。その頃の様子を石坂は昭和24(1949)年1月の日記のなかで次のように記している。「東芝では、如何いう訳か役員会を会社で開かず、交詢社とか日本クラブとか、工業倶楽部とか鉄道協会とか、転々として変わって歩いているので、自分の席へ戻る閑がない。これは幹部が組合に押しかけられるのを廻避するためだと思うが、少し馬鹿げているように思われる。費用と時間の浪費で、社員は役員に合う事も出来ず、私でさえも誰が何処にいるか判らない。東芝の欠陥は経営陣の不統一にある事は世評の通りで、労働問題もさる事ながら、先第一に改善するべきは経営陣の改善である事が痛感される。」 石坂は、過激な組合交渉から逃れるために役員会が様々な会場を転々としている有り様を「少し馬鹿げている」と評し、組合に向き合わないそうした経営陣の態度こそ、第一に改めるべきものだと考えた。「先第一に改善するべきは経営陣の改善である」との言葉どおり、石坂は社長への就任が決まると、労働組合側と正面から向き合う態度を示す。当時の労働組合委員長石川忠延が後に語った逸話によれば、石坂は社長就任が決まった後、突然に労働組合事務所へ「この会社の再建が私の仕事です。ざっくばらんに話し合いましょう。」と挨拶をしに来たそうだ。当時の情勢から考えると、並大抵な神経でない。社長就任後の6月には「全東芝従業員諸君に告ぐ」と題した文書で東芝の窮状を詳細に説明して従業員の協力を求め、7月から経営合理化に関する労働組合連合会との交渉を開始する。こうした石坂の確固たる意思のもと、「一番難事業」とされた人員整理も、8月までにほとんど完了するに至る。入社の意義を自覚し、「最後の努め」との覚悟を持った石坂のもと、残る再建課題であった組織改編、経理の正常化、GE社との関係回復を実現させ、石坂の言葉どおり「東芝の歴史において特筆すべき頁」を後世に残すこととなった。

 その後経団連会長など色々な役職につき、大阪万博も忘れられない仕事であった。自分の道楽に現を抜かす財界人にも色々注文をつけた。確かでないが(違う人物だったかもしれないが)自分の会社の屋上でゴルフに興ずる経済人にも一言あったように思う。石坂ならそう言ってもおかしくないし、それ以上のことを言ったことだろう。政治家にも物が言えて自由主義経済を基本にした彼は、国の干渉を拒んだ。政治や社会に対して財界の意見を代表し、自らの信条に基づいて政策提言を行った。中小企業や地方経済の振興や国際貢献などを強調した。現職の大蔵大臣や総理に向かって、『もう、きみには頼まない』という啖呵の切れる気骨人だった。こんな財界人は、今はいない。ただ浅沼稲次郎の暗殺事件での加害者山口二矢への同情的発言は問題視された。山口二矢の「天皇陛下万才、七生報国」との遺書を残しての自殺は、石坂なりの感慨があったのだろう。

  石坂は英語ならシェイクスピア、テニソン、エマーソン、カーライル、バイロン、スコット、ドイツ語ならゲーテ、シラー、アンデルセン等、全て原書を読破して教養を身につけていたという。ある時、石坂がスコットランドを訪れた時のこと。石坂を招待してくれた英国の実業家と月夜の晩一緒に散歩をした。ゆっくりと歩きながら、石坂がスコットの「湖上の美人」の一節を朗々と吟じ出したので同道した英国人が驚嘆した。英国人でも滅多に諳んじている人がいないのに、東洋の実業家が英国の古典を朗々と吟じたのだから無理はない。逆に考えれば、こちらが外国人を地方に案内したら、その外国人がその地のゆかりの謡曲、民謡を唸りだすようなものだ。スタンフォード大学には「イシザカ・ルーム」があるという。また、上智大学元学長であるピタウ神父が、あるインタビューに対し、日本に来て良かったと思う点に「石坂泰三氏と本田宗一郎氏に出会えたこと」と答えている。

 アベノミクスとは何だったのか。日本経済は確かにおかしくなった。企業の社会的責任は考えられることなく、経済格差は明らかに拡大した。前の日銀総裁白川方明も批判をしていた。貧困層の子供の実情は酷いものがある。いや社会全体がおかしくなった。この経済政策の出口戦略はあるのだろうか。日銀総裁は黒田東彦から、昨年4月植田和男に交代したが、誰になっても今の経済政策は続くのだろう。財界総理と呼ばれた石坂泰三がいたならば,安倍晋三、岸田文雄に何と言っただろうか。そして今政治家の政治資金パーテイーにおける闇金が問題になっているが、過去を見れば、政治資金については繰り返し問題になってきた。古いが田中義一の政治資金問題、田中角栄金脈問題、リクルート事件等、政治家はこれらの問題から何を学んだのだろうか。そもそも政治資金規正法の成り立ち、その後の経過を知らないのではないか。繰り返しになるが今、石坂泰三がいたならば,『もう、きみには頼まない』とか、岸田文雄に退陣を求めるようなことだけでは、済まなかっただろう。今人がいない。

   参考文献

  梶原一明 「石坂泰三 ぼくは仕事以外の無理は一切しない」 

  城山三郎 「もう、きみには頼まないー石坂泰三の世界」

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