野中広務と差別

世相

 野中広務は被差別部落出身で、野中が生まれた頃は、部落差別が日常の生活の中に深くしみついていた。野中の著書を簡単に書き麻生太郎に触れたいと思う。

 校長が「今日は穢多の清掃か」と言葉を投げかけたり、社会的には知識階級と見なされた医師ですら「コレ(四本指(人間以下の四つ足の獣の意)をだして)の方は・・・」と言って献血の血を捨てたりしたという。「おまえはエタだ」、「エタにエタといって何が悪い?」「エタは超人にも劣る」などと日常的に差別的言辞を浴びせられた。地図にも、平然と「穢多山」「穢多ガ峠」等差別的地名が記され、死んでも一般人と同じ墓地に埋葬されず、戒名も与えらず、あたえられても「ト(下のまた下の意)」「畜男」「畜女」咽と記された。部落出身とわかると就職は困難で、出自がわかれば解雇、もしくは辞めざるを得ないように仕向けられた。中でも結婚差別は熾烈であった。反対されて親元を離れれば誘拐と見なされ、捕らえられ、裁判を受ければ「特殊部落民でありながら自分の身分を秘し」と有罪を宣告された。当時、法律で廃止されていた封建的も分制度は、司法の中では生々しく生きていた。差別を受ける人の自死はあとをたたなかった。軍隊における差別はすさまじいものがあったそうだ。「軍人に賜はりたる勅諭」は、長文で暗唱が要求され、少しでもうまくいかないと暴力、絶食の制裁が加えられた。小学校も十分に出ていない部落民の青年は、毎晩腫れ上がるほど殴られ続けた。日露戦争から戻った部落出身の兵士は勉強会を開いたという。それは軍隊での経験によるものである。

 部落差別を無くそうという働きかけは大きく分けて2つある。

 一つは、部落民も「一人の人間である」と意識し、自らを解放して権利を勝ち取ろうとする「水平社運動」である。もう一つは官民共同で部落の改善と社会の融和を勝ち取ろうとした「融和運動」である。水平社運動は、1922年全国水平社が設立されたのち、「部落解放全国委員会」(1946年)、「部落解放同盟」(1955年)が設立された。その過程で自民党系の「全日本同和会」(1960年)と共産党系の「部落解放正常化全国連絡会議(後の全解連)」が結成された。融和運動の流れは「全国融和連盟」(1925年)が結成され、天皇への忠誠を誓い当時の国粋主義者や富裕層の力を借りて部落民の地位向上を図ろうとした。戦前はフアシズムの台頭と共に水平社運動を弾圧する側に回り、戦後「自由同和会」に引き継がれていった。「自由同和会」は、解放同盟から別れていた「全日本同和会」から、その利権体質や、脱税、エセ同和行為などに嫌気がさして脱会した都府県連合会が新たに結成(1986年)したものである。

  現在も部落差別はある。偏見も変わりなく存在する。私が参加した同和の学習会が部落であった。お茶が出され、私がそれに手を出したところ、隣にいた同僚が驚いた顔で私を見つめ「お前、それを飲むのか」と言うような表情でいた。私は何杯も飲んだ。今も部落の人は教育の機会は限られ、同僚のような態度の人間も多いと思う。

 以上のような中、野中広務は政治の中でトップを狙える位置まで上りつめた。その野中に対し、麻生太郎の以下のような差別と言える言葉が語られた。麻生は今も政治の中枢にいる。

 麻生太郎は、植民地支配で材を築いた麻生財閥の中でぬくぬく育ち、首相まで上り詰めた。麻生財閥を構成する企業の一つ、麻生鉱業は、強制連行された朝鮮人を強制労働につかせ、消耗品の労働力として、その命を紙くずのように扱った。1945までに1万人を超えたという.賠償は今に至るまでなされておらず、遺骨も遺族の元に返されていないという。また、麻生炭鉱は部落民を一般の労働者と分け、部落民専用の長屋に入れて奴隷のように酷使したという。2007年麻生は米議会での日本軍性奴隷制の対する決議案に対して、衆議院で「客観的な事実に基づいていない」と批判し、米国の共和党議員でさえ憤慨するお粗末な歴史認識を披露した。天皇家と親戚関係を持ち、いつも上から目線で見る麻生太郎の目には、朝鮮人も部落民も同じく消耗品であり、人の数に入らなかったのだろう。ソウル大学の学生が公式に麻生に公開討論会を申し入れたが、彼は一切応えなかったという。

 麻生はある会合で「野中広務やらAやらBは部落の人間だ。だから、あんなのが総理になってどうするんだい。ワッハッハッハ」と笑っていたという。

  野中は言う。麻生はそういう発言をする人かとの問いに「そうだろうね。実際そう思っているのでしょう。朝鮮人と部落民を死ぬほどこき使って、金儲けしてきた人間だから。彼が初めて選挙に出た時福岡の飯塚の駅前で、「下々の皆さん」って演説した.これが批判を受けて選挙に落ちたんだ。彼はずーとそういう感覚なんですよね」と答える。福岡の飯塚は在日と部落民の多いところで、野中は「何の疑問もなしにそう言うんだ。不幸な人だ。一国のトップに立つべき人じゃない。」

 麻生のこの発言は救いがたい家柄意識の表れで出自の低いお前達は所詮トップに立てない、自分の分をわきまえろと言っているのだろう。

  野中は「僕には子供がいて、娘なんだが、婿をもらったんだけれども、婿には「お前の姓を名乗れ」といった。「そうでなかったら、お前が小学校の時から積み上げてきたことが全てぜろになるぞ。だからこれまで使ってきた自分の姓を名乗れ」と。僕には苦い経験があるからね。それでも、僕が有名になればなるほど、家の娘や娘婿にも、波紋が広がっていく.婿が一生懸命に仕事をしたり、娘が一生懸命に劇団を作ったりなんかしている。ところが、つめたーい目でみられると」とかたっている。野中でこうなのだから、我々一般の人間で、部落の人達の現状は想像がつく。

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