体を痛める前は、裏に小さいが畑があり,春夏秋と畑仕事に励んだ。朝4:00に起きて,1回目のご飯を食べ,6:00まで働き、そして家族と2回目の朝食を取る。職場で昼食を取り、午後5:00帰宅すると午後7:00まで畑仕事する。夕食は食べず、かつおを肴に酒を飲み、午後9時には寝ていた。そんな毎日であった。畑仕事は、まず土を掘り返す、「耕す」から始まり、生ゴミを貯めていたものを、畑に作った畝の下に肥料として埋める。この時からカラス、たぬきが畑を狙い出す。畑に埋めた生ゴミを狙うのである。生ゴミを埋め、作った畝が翌朝カラスの掘り返されているのには、傷ついた。最初はホームセンターに行き、カラスよけという玩具のようなものを畑に置いたが無駄だった。隣の畑の人が、そのカラスよけにカラスが止まっていたと言われた時は、がっかりした。最終的には糸が効果的であった。糸を張り巡らせると、カラスは近づかなかった。農業の本を読んで。雑草農法だとか,石灰農法だと色々畑と遊んだ。畑を鍬で耕し,体のトレーニングと頑張ったのは、今考えると懐かしい。それにしてもカラスとの格闘は面白かった。カラスは頭が本当に良く私の姿を見ると逃げ出した。作った畝に,種をまき,買ってきた苗を植え、タヌキよけの糸を張り、上側にもカラスよけの釣り糸を張り巡らせ厳重な防備をした。畑の周りの人も驚いてみていたが、翌年からは慣れてきたようだった。撒いた種、植えた苗に水をやるのは、子どもを育てるような気持ちで励んだ。種から芽が出てきた時の喜びは一番で、ほんのりとした温かい気持ちになった。最初の頃、カラスにこの芽をやられ、カラスに殺意すら感じた。ゴム鉄砲のような物を作り、撃ったが当たらず、かえって自分の手を打った時がある。子供に笑われた。弓の購入も考えたが辞めた。糸を張る前の畑にはカラスやタヌキが縦横無尽にあらし、カラス、タヌキに殺意すら覚えた。ジャガイモの土寄せ、苗の剪定など本を読みながら挑戦をした。肥料はやらなかった。薬も撒かなかった。だから病気に負ける物は,私の畑では育たなかった。それからトマト、なす、ピーマンなどが大きくなると、畑への意欲は薄らいでゆく。お母さんは仕事が忙しく,畑は私の分担であった。野菜の収穫は週末お母さんがやってくれた。その為よく出来たトマトやなすをそのままにすることが多く、周りの人は「もったいない」と笑っていた。朝4:00に起きて、味噌汁を作るのも私の仕事だった。私の味噌汁は,ジャガイモ、なすなど何でも入れたもので、ご飯と,味噌汁を飲めばそれで体には十分であった。子ども達は辟易していたようだが、私は満足していた。
夏の水くれは、じょうろでやっていたので大変であった。家の前と横に庭があり、夏雨が降らない時は、植木にも水をやるのに1時間半はかかった。夏枯れそうになった植木が、秋元気な葉を茂らすと、我が子のように喜びを感じた。それと畑仕事で雑草は難敵だった。雨が降らなくとも元気に這え、広がっていった。草取りは苦痛であった。でもやらないと、酷いことになるので毎年、重い気分で草取りは欠かさなかった。晴耕雨読とは良く言ったもので、雨の日は読書に励み、晴れの日は畑とメリハリの効いた生活が出来た。時に夏の雨の降らない時は、晴耕晴耕の毎日であった。
今体を壊し、水くれをかろうじて手伝うくらいである。それでも畑の水やりは、大事でやりがいがある。お母さんが、農家の出だけあって、手際よく綺麗に、畑をやってくれている。うちの広さの畑が丁度よい。隣にそれは広い田畑をやっている人がいるが、旦那さんを事故で亡くし一人で、大きな農機具を使いながらも農作業をやっておられる。農作業は人の手でないと駄目な仕事もあり、それは大変である。子供は娘が一人いるが、殆ど手伝わない。何年か前に、あまりの広さに5棟のアパートを建てられたが、それでも広い田畑である。朝早くから、夜遅くまで農作業に励んでおられる。私は家から、その方の働く姿を見ながら、人が生きるとは何かとよく考える。その方は何を考えながら、農作業をされておられるのだろうか。長年の農作業のせいで、体がくの字に折れ曲がった姿に、あの方は何を思うのか。娘の将来や、悩み事はあるだろうがせっせと働いておられる。私のうちの畑は本当に、よい広さである。そして疲れるが、気持ちを癒やしてくれる。カラス、たぬきと雑草は余計だが。