菅原文太は、日本の俳優である。「下積み」の時代が長かったが『まむしの兄弟』シリーズ、『仁義なき戦い』シリーズ、『トラック野郎』シリーズなどで人気を博した。その後岐阜県で有機農業に取り組み、食の安全や命の大切さを人々に訴えた。晩年は山梨県北杜市に住んでおり、11月30日に福岡県太宰府市の太宰府天満宮祖霊殿で家族葬を行った。
三船敏郎を尊敬し「富士山のような存在」と賞賛していた。鶴田浩二とも共演が多かった。安藤昇とは、渋谷で交友を重ね、一緒に松竹入りしている。渥美清とは偶然、本屋で会っている。若山富三郎については「殴られたりしたが、散々されたけど、俺はやはりあの人が好きだった」と語っている。石原裕次郎とは同時期にデビューしたが共演経験は無い。石原慎太郎を「ボケ老人だね、アイツ。」と評した。
井上ひさしとは同じ高校の先輩後輩で親友であり、代表作「吉里吉里人」の映画化権を預かっていて、菅原自身が自らのプロデュースで映画化すべく奔走していたが、実現することなく死去した。残念なことであった。
2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙、所謂郵政選挙では広島6区(尾道市ほか)に立候補した国民新党の亀井静香の応援に登場。亀井の唱える農業政策等を支持し、同じ選挙区に立候補した堀江貴文を批判、「向こう(堀江陣営)は仁義なき戦いをしているが、こちらは仁義ある戦いをしましょう」と亀井を激励した。その甲斐あってか、亀井は堀江を破って当選を果たした。2014年11月には沖縄知事選では、翁長雄志陣営で応援演説を行い、「仁義なき戦い」ラストシーンのセリフを引用して、「仲井真(翁長雄志の選挙相手)さん、弾はまだ一発残っとるがよ」と述べた。選挙は翁長雄志が勝利した。
映画評論家の秋本鉄次氏は、文太さんの死を悼みながら、スターの経歴を解説する。
「よく『仁義なき戦い』が文太さんの代表作だと言われますが、『人斬り与太』が、深作欣二監督と文太さんコンビの最初の作品なんです。映画が公開された1972年は、全共闘全盛時代の直後のことですね。私を含めて、当時の若者たちは暴力なくして腐敗した大組織は破壊できないものなんだと、この映画を見て、少なからず影響されたものです」
ヤクザの組長など荒々しい役が多かった文太さんだが、実際はインテリな少年時代を送っていた。
「宮城県の仙台市生まれで、出身高校は進学校で有名な仙台一高。新聞部に所属していて、部の1年後輩である作家・井上ひさし氏の原稿をビリビリに破いた話は、同校でも伝説として語り継がれていますね」(映画ライター)
進学校でもヤンチャなエピソードを残しているのはさすがのひと言。
卒業後は早稲田大学に進学したが、芸能界に足を踏み入れたこともあり、1年で中退。新東宝で映画人生のスタートを切り、後に東映へと移籍するが、当初は大した役をもらえなかったようだ。
当時の文太さんをよく知る俳優仲間の一人である曽根晴美さんは、懐かしそうに振り返る。
「あの頃は、オレにしても文太さんにしても、金には苦労していてねえ。ギャラは安いし、仕事も少なかったからね。東映の京都撮影所に缶詰になって撮影が始まっても、旅館やホテルは、役者が自分で手配したもの。小さなホテルに泊まって、毎晩のように焼酎飲みながら、仕事の愚痴だよねえ。酒はね、あの時代、だいたい焼酎だったね」
また、つきあう仲間も文太さんらしかったという。
「それに文太さんは、山城新伍とか、渡瀬恒彦とか、松方弘樹とか、もっぱら男とばかり、つるんでいたね。男の生き方がどうしたとか、将来はこんな役者になるとか、こんな仕事やってみるぞ、とかね」(前同)
役者の道を懸命に歩む文太さんがスター街道を突っ走るキッカケとなった作品は、やはり73年から始まる『仁義なき戦い』のシリーズだ。
「今の脚本家と違って、あの頃はみんな固太りの人で、(『仁義なき~』の脚本家も)ただ机に座って書いただけではなくて、舞台になった広島のヤクザ社会に1か月くらい潜入して脚本を書き上げたんだな。脚本家自身、迫力ある人だったけど、ヤクザにひどく脅されたっていうんだから。”おまえ、何しに来たんやッ”ってね」
役者もスタッフも死に物狂いで作品作りに挑んでいたからこそ、全編が鬼気迫るシーン満載の作品になったのだろう。
75年にスタートした『トラック野郎』ではコワモテの極道から一転、電飾輝く”デコトラ”のハンドルを握るコミカルなトラックドライバーを演じ、大人気を博する。文太さんの役者人生において大きな転機となった作品と言えよう。
その『トラック野郎』で文太さんの相棒役、やもめのジョナサン役を演じた愛川欣也さんは訃報を聞いて、こんなエピソードを明かしている。
「『トラック野郎』の頃、オレはすでに酒をやめててね。文ちゃんは、よく飲んでた。もしオレが飲めたら、赤ちょうちんでもどこでも、話ができたなあと。”(つきあえないで)悪かったな”と言いたい」
『トラック野郎』の撮影に携わったスタッフは、活気に満ちあふれた現場だったと、当時を振り返りながら話す。
「1日の撮影が終わったら連日のように宴会していました。酒場でトラック野郎たちが盛り上がるシーンの撮影では、ホンモノの一升瓶を使って、酒を飲みながらアドリブで演技したりしたもんです」
撮影現場での豪快なエピソードが語られる一方、健さんと同じで大スターらしく、私生活はあまり表に出さない人だった。
「文太さんが結婚したときも、披露宴を挙げると映画のイメージが崩れると言って、年賀状で知人に結婚の報告だけで済ませたりしていましたね。ただ、そんなことがあったからかどうかわからないけど、文太さんは文子夫人に頭が上がらなかったといいますね」(映画配給会社幹部)
愛妻家であると同時に、非常に家族思いな、人物だったようだ。
「01年に俳優だった長男(当時=31)を踏切事故で亡くした際には、あまりにショックな亡くなり方だったこともあり、周囲に”もう、仕事する気にならないよ”と、柄になく弱気な面を見せていたね」(前同)
ただ、”昭和の頑固おやじ”らしく、子どもたちには厳しかった。実娘を知る人物によると、
「娘さんは若い頃に家出同然で家を飛び出したそうです。長男とは違い、彼女は芸能界にはまったく興味を示さず、海外に留学して現在もアメリカで生活しています」
とはいえ、娘さんも文太さんのことを心底愛していたようで、
「彼女、父親の山梨の農園の名刺を知り合いに配って、嬉しそうに”今、父親はこんなことしているんですよ”なんて紹介していましたよ」(同)
芸能界での豪放磊落(らいらく)な姿とは違って、私生活は至って庶民的だったという。
「中華料理が大好物で、ボクシングやプロレスなどの格闘技のファン。読書や、パソコンでネットサーフィンするのが趣味という、知的好奇心が旺盛な一面もありました。外出する際には一切、車を使わず、電車などの公共の乗り物を使っていたそうです」(芸能リポーター)
しかしながら、プライベートでも豪快な仰天エピソードも残している。
「文太さんの自宅の冷蔵庫の中には、大量の点滴用の液剤が入っていたそうです。それを見た人がビックリして聞いたら、文太さん、ナント、”飲むんだよ”と言って、点滴の袋をハサミで切り、コップに注いで飲み始めたというんですよ。菅原文太は、疲れがたまると点滴用の液剤をそのまま飲んでいた!――この話は、今や伝説になっています」(前同)
亡くなった今となっては真偽を確かめる術もないが、大物俳優らしいエピソードだ。そして人生の最期の瞬間までとことん”男”というものにこだわった。
「文太さんが膀胱がんを発症したとき、担当医に膀胱の全摘出を勧められたんです。そこで文太さんは、親交のあった諏訪中央病院の名誉院長に相談したそうです。そのとき、文太さんの残した言葉が、彼の生き様を象徴しています」(芸能プロ関係者)
文太さんは、こう言って手術を拒否することを決意したという。
「おしっこ袋をぶら下げて生き延びたとしても、それは菅原文太じゃない」
死を前にしても、”男”にこだわり続けた男。文太さんが残していったのは、現代に生きる男たちが忘れきょうじつつある心意気や矜持だったのではないだろうか。
菅原は反戦、反原発、自然保護運動に尽力した。そうした立場からの発言も多かった文太だが、かつては右翼・民族派サイドとの交流もあった。とりわけ朝日新聞社内で壮絶な拳銃自決を遂げたカリスマ烈士・野村秋介との関係は、決して長い期間ではなかったが、濃密なものだった──。
菅原文太は映画界ばかりか、政財官界、文化人‥‥等々、各方面に多彩な交友関係を持っていた。中にはアッと驚くような意外性に富んだ人物との親交もあって、文太の懐の深さ、人脈の豊富さを物語っている。
平成5年(1993年)10月20日、朝日新聞社において壮絶な拳銃自決を遂げた野村秋介との親交も、つとに知られるところで、納得できるといえば納得でき、不思議といえば不思議、ユニークな組みあわせに違いなかった。実はアサヒ芸能の平成4年7月2日号で2人は対談している。「特別対談」と銘打たれ、タイトルには〈「本物の男」をめぐり大激論!〉とあった。
折しも野村秋介は政治団体「風の会」を結成し、先の6月19日の記者会見で夏の参院選比例区への出馬を表明したばかりだった。
その主な候補者は、タレントの横山やすしの他、国立大学名誉教授、弁護士、僧侶、トラック運転手、主婦ら10人。また「風の会」の推薦人には、安部譲二、栗本慎一郎、ビートたけし、具志堅用高など各界の著名人が名を連ねており、菅原文太もその1人であった。
野村 だいたい、ボクは一回も選挙の投票に行ったことがないのよ。それがいきなり立候補じゃ、詐欺だよね(笑)。
菅原 ハッハハ。
野村 選挙も、はじめっからイヤだってはっきりいってるんだよ。まるっきり、やる気なかったの。ある人にもいわれたんだけど、「野村秋介は野に置けれんげ草じゃないが、野にいてにらみをきかせていてほしいんだ」って。
菅原 オレも、最初に野村さんから相談受けたとき、同じ意見だった(笑)。でも、いいじゃないですか。いままでの生き方から、また別な新たな戦いの場に出て行くのも、ひとつの姿でしょうし‥‥。それでこの腐敗した政治に突破口が開ければ、大いに喜ぶべきことでしょう。
──といった調子で、終始いい雰囲気で話も弾み、2人は互いをよく理解しあった心の友であることがうかがえる。
また文太は、同対談上で、「風の会」の候補にトラック野郎がいることを喜んで、
「まじめな話、彼らが非常に苦しい中で仕事をしているのは事実ですから、そういう中から代表が出て、一陣の風を巻き起こすことは大いに結構ですよ。確かに、そういったバラエティに富んだ人選はおもしろいし、また、彼らを右翼の人たちや、任侠の人たちが応援するのは自由なんだもんね」
とも述べている。
文太が目標にした高倉健は、奇しくも同じ年の11月10日に逝去しており、昭和の大物スターの相次ぐ訃報に落胆されたファンも多いことだろう。
高倉は孤高が似合うスターだが、文太は『仁義なき戦い』に代表される群衆劇、あるいは『トラック野郎』や『まむしの兄弟』シリーズなどのコンビ物で輝いた。高倉が去ったあとの東映を支えたのは、文太と言っても過言ではない。
引用 ◆作家・山平重樹
参考文献 日刊大衆