母は日赤の看護学校で学び、仙台から戦地に向かった。色々戦争の話を聞いたが今思うと記録をしておけば良かったと悔やまれる。思いつくまま書いてみたいと思う。
母は夏になって、私がポロシャツをズボンの中に入れないで、出して着ていると何度も私を叱った。理由を聞くと、フィリピンで勤務している時、ポロシャツをそのまま出して着ている人間は、憲兵にマークされ注意をうけたそうで、それは拳銃をポロシャツの下に隠していることが多かったからのようである。
女スパイの話も良く聞いた。アメリカの女スパイが捕まり、逆スパイとして送り返されることになったそうだ。その時女スパイは整形を施されたそうだ。その時看護婦として立ち会ったのが母である。整形の手術の病院は、外は勿論のこと、手術室の周りに多数の兵隊が配置されていたそうだ。手術を終えた女スパイは母に「日本が勝ったら、●●さん(母のこと)には箱根の別荘をプレゼントするわ」と語っていたそうだが、母には夢に終わった。
山本五十六が撃墜される前に、慰問に訪れていたのが母の部隊だってそうで、山本五十六を間近に見た最後の一人となった。
母は花火を嫌っていた。爆撃の時が思い出されるのだろう。野戦病院は、戦いの最初は後方にあるが、戦いが激しくなり部隊の撤退となると、最前線にいることになり、銃弾が飛び交う中を看護に、生きるために水を汲みに行くなど、忙しく動き回ったそうだ.だから銃弾には敏感になって、来たと思って身を屈めたら、頭のすぐ側を銃弾が通過したそうだ。人間は五感とは違う、ある種特別な感覚があるとよく言っていた。
撤退した部隊の最後尾になり、野戦病院も撤退することになった時、動けない負傷兵には自決用の手榴弾や、時には毒物が与えられたそうだ。中には死にきれないと思われる負傷兵には看護婦が毒物を投薬したそうだ。母も2~3人に投薬したと語った。中には人間3人が死ぬような量の投薬をして、暫くして様子を見に行ったら生きていたので、さらに像1等分の致死量の投薬をして、また暫くして見に行ったら亡くなっていたとの話は驚いた。人間が生きることへの執念はすざましいものがあるようだ。野戦病院の悲惨さは訊くのが苦しくなるような状況だった。砲弾のかけらが手足を突き抜けたというのは軽い方で、砲弾で手足が吹き飛んで運ばれた兵隊の話は心に残る。薬品も底をつき、出血の止まらない負傷兵に「祖国に帰りたくないのですか」「祖国の家族に会いたくないのですか」等と声をかけ、「これをのめば血は止まります」と砂糖(あったか不思議だが?)水を飲ませたら出血が止まった話も、負傷兵の気もちを思うと、あっても不思議でないように思われる。その経験があるのか、病気は気持ちが一番とよく話していた。
食べ物はなくなり、人肉を食べた者もいたようだと訊いたという。母はゴキブリがご馳走であったそうだ。そして何より水が貴重で、夜中米軍に知られないように、川へ水くみにいって、銃撃に遭ったこと、また銃撃されてなくなった友人の話もしていた。母は自分が死んだら仏壇にご飯は良いから、毎日水だけはあげてくれと頼まれていたが、いつしか忘れてしまった。あちらの世界に行ったら謝ろう。
上官についても語っていたが、良くは言わなかった。普段は威張って、良いものを食べて(食料が不足していたのにもかかわらず)、部下には無理難題をいい、それが土壇場で真っ先に逃げ出すと言っていた。人間の本性はそういう時、わかるのであろう。真っ先に逃げた上官の軍医は戦後どこかの大学病院の病院長をやっているのだろうと語っていた。
逃げる際の苦難もよく語っていた。道なき山を、脇は絶壁のとこを、歯を食いしばって逃げたそうだ。そんな絶壁でも銃弾は飛んできたという。仲間の看護婦さんの何人かは撃たれ亡くなられ、何人かは絶壁から墜ちていたそうだ。助けられそうな場面でも手はなかなか出せなかったという。自分が助かったことよりも、手が届かなかった事を母は悔いていた。撤退は苦難の限界を超えていたという。上官はその頃安全な場所で寛いでいたのだろうか。
母は日頃から、何かあっても狼狽えるな、ひとまず落ち着いてからどうするか考えよ。「成るようにしかならない」とどっしり構えていた。映画館で大地震に見舞われた時、その映画館には2Fに桟敷席があったがそこから人が墜ちたりした。また入り口に大勢の観客が殺到したが、母は一言「動くな」といって、私と母はその場に座っていた。かなり長時間揺れて怖かった。観客に怪我人もいたようだが、母と二人悠々と、みんなより最後に映画館を出て帰宅した。私は入場券の払い戻しをしてもらわないと言うと、母は「そんなものはどうでも良い」と帰りを急いだ。私は入場券の払い戻しが気になった。
フィリピンで捕虜になり、どうなることかと思ったそうが、待遇は良くビーフステーキは美味しいと言っていた。その時アメリカ人と会話を良くし、3Sと言うことをいわれたそうだ。戦後の日本を堕落させるのに、3S(サウンド、スクリーン、スポーツ)でやるのだとのこと。果たして3Sが悪いのか、もう母いない。まだまだ一杯聞いたが今は思い出せない。(3S政策(さんエスせいさく)とは、主にGHQが日本占領下で行ったとされる、screen(スクリーン=映像鑑賞)、sport(スポーツ=プロスポーツ観戦)、sex(セックス=性欲)を用いて大衆の関心を政治に向けさせないようにする愚民政策とされている。母からはセックスの部分がサウンド(音楽)になっていたが、戦後日本の姿を見ると頷けるところもある。テレビに出ている役者やプロスポーツ選手が国会議員になるのは・・・・・。
母の思い出で面白かったのは、地元の自民党の有力代議士の後援会に入っていて、バスを連ねての後援会の慰労会に参加をし、お昼は盛大なご馳走、そしてお土産をもらって帰ってきた。で選挙であるが、共産党は嫌いなのに「共産党に入れてきた」と言うので理由を問うと「一番弱いところに入れた」と答えた。
母は戦前の教育を強くうけ、天皇を深く敬愛をし、私とぶつかることもあったが、母が亡くなる直前、お前も考えているのだろうから、思うように行動しろと言われたのには驚いた。母は今何をしているのだろうか。