小原勝幸事件

世相

 2008年7月1日、岩手県川井村に流れる川のほとりで、県内に住む17歳の少女、佐藤梢さんの遺体が発見された。司法解剖の結果、死因は頭部の外傷または頸部の圧迫によると見られ、首を絞められたあと、川にかかる橋の上から落とされた際に頭を強打した可能性が高く、死亡推定時刻は6月30日~7月1日と発表された(岩手県警宮古警察署捜査本部はのちに「6月28日午後9時ごろから遺体となって発見される7月1日午後4時ごろまで」と訂正)。すぐにマスコミが梢さんの写真を公開。茶髪でコギャル風メイク、そして身体にタトゥーを入れていたことが報じられた。

 当時、梢さんの交際相手だった男性の証言によると、彼女がその男性の家を出たのは6月28日午後10時20分。その際、梢さんは「友達の彼氏(=小原)に呼ばれた。恋愛相談。私、殺されるかもしれない・・・・・」と言い残していたという。

一方、梢さんを呼び出した小原は、遺体が発見された同じ日に見通しの良い直線道路で電柱に突っ込むという事故を起こした上、翌日には三陸海岸に面した自殺の名所である鵜ノ巣断崖から「飛び降りる」という電話を友人にかけ、恋人に「俺、死ぬから」というメッセージに断崖の写真を添付したメール、弟(次男)には「サヨウナラ、迷惑な事ばかりでごめんね」というメールを送り、いずれも自殺をほのめかしていた。

そして、小原は父親と弟(三男)に最後の電話をかけたあと、その場から姿を消してしまう。付近から財布・タバコ・サンダルなどの遺留品が発見されたのは、その翌日のことだった。しかし、その後小原の遺体が発見されなかったため、警察は”偽装自殺”と断定。約1カ月後の7月29日、住所不定・職業不詳の小原勝幸を「殺人・死体遺棄事件」の犯人として公的懸賞金100万円を懸け、全国に指名手配した。

 その後、元警察官でジャーナリストの黒木昭雄が独自に行った取材・調査により新たな事実が判明した。黒木昭雄さん(享年52歳)は、元警視庁巡査部長で、退職後は ”捜査するジャーナリスト” として、警察内部のさまざまな問題や世間を騒がせた事件などを、独自の視点で解析し捜査していた。23年間の警視庁在籍中は、23回もの警視総監賞を受賞するほどの優秀な警察官だった。黒木さんは、この事件の不可解さに関心を持ち捜査を開始したが、その勤勉さゆえ文字通り命を懸けた捜査となってしまった。しかし、彼の懸命な捜査がなければ、この事件は人々の記憶から消し去られたことだろう。黒木さんの見立ては次のようなものである

 小原と梢さんが初めて会ったのは2007年2月。小原は後輩と宮城県登米市内のショッピングセンターで梢さんら2人をナンパし、その後それぞれがカップルになっている。後輩の相手は殺された佐藤梢さんで(のちに破局)、小原の相手は佐藤梢さんの親友で、佐藤梢さん。つまりナンパした女性2人は同姓同名だったのである。

交際をスタートさせてから約3カ月後の5月1日、小原は”恐喝”の被害に遭う。ある男性に仕事を世話してもらったものの、あまりのキツさに逃げ出し、「顔に泥を塗った。迷惑料として120万円支払え。支払えないなら指を置いていけ」と日本刀を口の中に入れられて脅され、借用書を書かされてしまう。さらに「保証人を立てろ」と言われ、その場にいた弟(次男)に頼んだものの、「関わりたくない」と拒否されたため、小原は交際中である梢さんの名前・携帯番号を書いたという(恐喝を行ったとされる男性は、素手による暴力と10万円を請求したこと、保証人を立てさせたことは認めているものの、それ以外については否定している)。

しかし、無職の小原は金を支払えず、翌年の6月3日に岩手県久慈警察署に被害届を提出。弟とともに事情聴取を受けるなどして事態の収拾を図ったが、同月28日に突然、小原は交際相手の梢さんに「被害届を取り下げる」と語ったという。というのも、小原の強引な性格と暴力に嫌気がさし、何度も梢さんから別れを切り出しており、2008年6月28日、前夜から2人で来ていた盛岡競馬場の駐車場に停めていた車から小原がいなくなった隙を見て、彼女は逃げ出して宮城県の実家に電車で帰ってしまったのである。所持金がほとんどなく、車のガソリンも半分以下だったため、小原は彼女を追いかけることができず、執拗に電話・メールで「被害届を取り下げるから戻ってきてくれ」「お前が一緒じゃないと取り下げられない」と連絡してきたという。

しかし、彼女に相手にされなかった小原は、同じ名前を持つ交際相手ではない方の佐藤梢さんを呼び出したのである。黒木氏は、独自の視点から「真犯人は別にいる」「すでに小原は生きていないのではないか」「恐喝事件と梢さん殺害事件は密接な関係がある」と推理を立て、綿密な取材を粘り強く行っている。また「警察はきちんと捜査をせずに、小原を容疑者と断定している。小原は事件前の6月29日に右手の小指・薬指を怪我していて、右手全体が使えなかった。診察した医者は、人の首を絞めて橋から投げ捨てることはできない状態だった、と証言している」。小原の弟も「箸が使えずフォークで食事をしていた」と話している。

2008年6月29日午前2時14分から3分間ほど、岩手県盛岡市内のセルフ式のガソリンスタンドの防犯カメラに、車に給油する小原勝幸の姿が記録されている。右手に白い布のようなものを巻いている事も確認された。

同日午前9時頃、小原勝幸は岩手県田野畑村の弟夫婦の家に現れ、佐藤梢Bさんは同行しておらず、右手に大怪我をしていた事から、済生会岩泉病院を受診している。小原勝幸は病院で「酒に酔って壁を殴って怪我をした」と説明したという事だが、担当した医者は「壁を殴ったような怪我には見えなかった」と証言している。小原勝幸は翌30日父親に、先輩「Z」からの脅しが弱くなったので被害届を取り下げたいと相談している。これ受けて父親は、6月30日の昼頃に警察に連絡してその意思を伝えるが、警察側は「後2、3日で逮捕できる」、「家族の安全は保障する」と言って被害届取下げを拒否する。30日まで、弟夫婦の家に滞在している。

「また、鵜の巣断崖にはサンダル・財布・免許証が残されていて、一見飛び降り自殺に見えるが、警察はこれを偽装と見ている。飛び降りていないとすれば、小原は誰かに連れ去られ、殺されたのではないか?素足では逃走できないし、交通機関もない場所である。そもそも小原にはアリバイがあり、梢さんを殺害する動機はない。」

「この殺人事件は、小原の先輩の恐喝事件に端を発しているのは明らかであるのに、警察は捜査を怠っている。小原が被害届を出したことさえ否定している。きちんと捜査をしていれば、梢さんの殺害も防げたはずだ」

 佐藤梢さんの遺体を司法解剖した岩手医科大学の医師からは、死亡推定時刻は「6月30日から7月1日」との見解が出されていたが、なぜか岩手県警察は「死亡推定時刻は6月28日の深夜から、遺体が発見された7月1日の午後4時30分頃までの間」と答えている。

これについて、黒木昭雄さんは、当初医師が示した死亡推定時刻に当てはめると小原勝幸にアリバイが成立してしまうため、死亡推定時刻を広げて発表したのでは無いかとの疑いを持たれているようだ。

「岩手17歳女性殺害事件」の容疑者として小原勝幸の捜索を開始した警察でしたが、その後の捜査はあまりにも杜撰なものだったようだ。まず、捜索が開始されたのはなぜか小原勝幸のサンダルや財布などが発見されてから1日遅れの7月4日であった。しかも捜索に投入された人員はわずか15人、検問も敷かれず、消防団への協力要請も出されないという殺人容疑者の捜索とは思えない小規模なものだったようである。小原勝幸の父親は警察犬の導入について捜査関係者に尋ねたそうでだが、「警察犬を使うには数十分単位でお金がかかる、あなたに支払えますか?」と門前払いされたそうで、父親が後で調べたところ、一般市民が警察犬出動費用を支払わなくてはないという事実は無いという事が判明したという。

 これらの成果として、事件の関係者(被疑者側・被害者側)からの信頼を得て、2009年5月13日には警察への情報提供と捜査進展の要望を兼ねた記者会見で中心的役割を務めた。黒木さんは会見を開き、同姓同名の佐藤梢さんが2人いることを世間に発表した。そして警察に情報提供書を提出したが、警察が動くことはなかった。

2010年6月30日、小原の父親が、指名手配の差し止めなどを求める裁判を盛岡地方裁判所に起こした。父親の訴えによると、「息子は遺体発見の2日前から弟の家にいて、時間的な アリバイがかなりある。警察が犯人と決め付けた根拠の説明がない」などとして、岩手県警本部長と警察庁長官、岩手県と国に対して、指名手配の差し止めと760万円の損害賠償を求めたもの。訴えに対し、県警察本部では「訴状をみていないのでコメントでき

2010年4月、事件調査委員会の設置を求め、田野畑村人口の54%にあたる2170人分の署名を岩手県に提出。しかし、岩手県側はこれを拒否した。

2010年11月1日、小原の懸賞金が100万円から300万円に上がった。この時黒木さんは「きちんと捜査もせずに、国民の税金を300万円も使うのか」と憤慨している。

 事件を追及していた黒木昭雄氏は、2010年11月2日、千葉県市原市で、駐車した車の中で死亡しているのが発見された。自殺とみられている。

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