意 識 2

人生

 不眠症から「意識」とは何かと考えだした。本を読む時は老眼鏡が必要だが、インターネットで見ると楽だ。むかし読んだ本から、インターネット等で得たものを調べて始めた。インターネットは本当に便利な道具だと実感した。年をとり本の小さな字を追うのには疲れるが、まだインターネットは文字も大きく出来、本当に助かる。昔から字が下手で、今は殆ど書かないので、直接PCに打ち込んでいく。そのため見たり読んだりしたものをばらばらに、載せていくので読みにくいと思うがご容赦を。また読んでいて分からなかったものを、調べて( )内に載せたのでなお読みにくくなった。そこで省略したり、付け足したりして一層読みにくくなった。分かったつもりになったものが、実は全く理解していないのではと、感じて、この1ヶ月「意識」に悩まされて、不眠症の私が不眠症になりそうだ。

意識(いしき、Consciousness)は、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す

精神分析学では人間の心を、意識・前意識・無意識の三つに分ける。 自分で現在認識している内容を意識という。 つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。 意識は短期記憶(記憶とはものごとを忘れずに覚えていることだが、その記憶時間によって記憶は大きく感覚記憶、短期記憶、長期記憶の3つに分類される。感覚記憶は感覚器官において1秒ほど映像や音などを保持する記憶で、短期記憶はより長く、数十秒間覚えていられる記憶で、短期記憶の容量は7±2(5~9)とされており、一度に8個以上のことを記憶するのは困難とされている(ジョージ・ミラーという心理学者が1956年に発表した論文に由来するもの)。長期記憶はさらに長く、何十年も記憶することができ、また大容量の情報を記憶できる。)・作動記憶(作動記憶とは認知心理学において、情報を一時的に保ちながら操作するための構造や過程を指す構成概念である。←作業や動作に必要な情報を一時的に記憶・処理する能力であろうか。作業記憶とも呼ばれているようだ。)と関係があるとされる。前意識 (ぜんいしき) は、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念で、通常は意識に昇らないが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる無意識の領域である。

無意識とは、意識を失っている状態(ふつうの心理学や精神医学での用法)、または精神分析学を創始したジークムント・フロイトの発見に始まる心的過程のうち自我では把握できない(意識できない)領域を言う。

中世では、conscious「意識がある」とconscience「良心」の語源が同じ(scire「知る」)ことからも推測されるように、意識はほとんど良心と同義であり、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった。

意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」などの方法論的懐疑(デカルト哲学の根底をなす方法。 少しでも疑いうるものはすべて偽りとみなしたうえで,まったく疑いえない絶対に確実なものが残らないかどうかを探る態度。)により、後世に主観的でありしかもなお明証性(← ある命題はその意味が精神に直接的に明らかであり、かつそれが真か偽かを問うて、その真であることがすこしも疑いえないとき、明証的であるという。)をもつコギト(われ思う,ゆえにわれ在りの命題のラテン語訳→今日ではむしろ〈自己意識〉を含意し,精神や自我の本質を自己意識に見ようとする立場と結びつけて語られる)と表現される認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。

ライプニッツにおいては、全表象能力(抽象的な世界が理解できるためには、目に見えないものを想像したり、イメージする力が不可欠であり。この力が象徴能力(表象能力)である。この表象能力によって、私たちは文にかかれていないことを想像して読み取ったり、他人の心を想像したり、実際に見ることのできない物理学的・化学的な現象を理解したりすることができる。)は各々明晰さの度を持ち、最も完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語: Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と造語し名づけた。カントは、Cogitoを「純粋統覚(1)」とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。

  意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的(流れを上流にさかのぼって行くこと。)に知られるとした “ich bin” 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、”独: das Ich”(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。つまり、そのようなdas Ichは、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち(独: Tathandlung(日本語訳 事行=自己を認識する活動である)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、シェリング、ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を「無意識」(Unbewusstsein(直訳:意識でないもの)、Bewusstlosigkeit(直訳:意識を欠いた状態))と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学(存在論は、哲学の一部門。さまざまに存在するもの(存在者)の個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定について取り組むもので、形而上学ないしその一分野とされ、認識論と並ぶ哲学の主要分野でもある。)に再び座を譲った。

(1)統覚:統覚(とうかく、独: Apperzeption、英: apperception)とは、心理学や哲学、認識論における概念である。原語のApperzeptionは、近代ラテン語のadpercipere(ad-「の方へ、に向かって」とpercipere「獲得する、知覚する、理解する」)に由来する。イマヌエル・カントは、超越論的統覚を経験的統覚から区別した。超越論的統覚とは、主体――経験の必要条件および経験の統一の最終的な基礎である純粋な、本来の、変わらない意識――としての純粋自己の意識を含むような客体の認識である。経験的統覚とは、自分の変化する状態、すなわち内感による実際の具体的な自己意識である。超越論的統覚は自己意識とほぼ等しい。自我の存在が多少顕著かもしれないが、それは常に含まれている。

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