不眠症を考えているうちに、意識を考え始めた。意識とは何だろうか。意識を調べ始めた。
意識は、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す。
日本語では、「ある物事について注意を払っている」という意味で「意識する」、「考え方や取り組み方について努力が行われている」といったことを表す場合「意識が高い(または低い)」といった言い方がなされる。その意味は多様である。哲学、心理学、生物学、医学、宗教、日常会話などの中で、様々な意味で用いられる。とてもでないがこれら、一つ一つには、ついていけない。そうした全体を含む最も包括的な意識の定義として暫定的にしばしば使用されるのはアメリカの哲学者ジョン・サールが採用した定義に基づく次のような定義である。
「意識とは、私たちが、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢のない眠りに戻るまでの間持っている心的な性質のことである」である。
(←夢を見たらどうなるのか、夢を意識と考えるのか、そうでないなのか、疑問はさらに広がる。)
意識は自分の感ずる「感覚」「感情」「観念」に分けられる。意識は自分で現在認識している内容を意識という。つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。一方、日常の中では、意識という語は知性(英:intelligence)や自由意志(英:free will)の意味と混同されることがある。
意識とは何かということについてだが、先に示したような定義もあるが、意識という現象は現在まだ説明できていない。もしも脳の機能的な側面とその局在(限られた場所に存在すること)とが、すべて解明されたとしても、意識とは何かということの答えにはなっていないように思われている。
そんな意識を考えていた時、見つけた「明治大学情報コミュニケーション学部教授メタ超心理学研究室 石川 幹人氏」の一節を載せる。
「心とは何か」と問われるよりも「意識とは何か」と問われるほうが答えやすい。(←答えやすいとは凄い)我々が起きている状態には意識があり,寝ている状態には意識がない(夢を見ているときは意識がある)(←夢は意識か)という,明確に区別できる差異があるからだろう。また,寝ぼけているときのような,両者の中間的状態,普通の覚醒状態とは異なる意識状態の存在も比較的理解しやすい。
意識とは,精神的経験全体の安定した流れであって,恒久的自己を形成する(自己形成とは、経験のなかで自分自身を作り上げていく過程で、 私たちの自己は、「他者」との関係にこそ存在する。 私たちは赤ちゃんのとき、周りの人たちから触れられ、声をかけられ、微笑みかけられるなかで、自分自身も他者に向き合い、働きかけていることに気づいていきながら、自己の人格やアイデンティティを形作っていくこと )統一性のとれたものである。また「意識する」とは,主体的な気づきの感覚であり,そこには何かしらの状況把握や反省が伴われる。より客観的には,認知心理学者のバーナード・バーズが1988年,意識しているという内観報告(1)(自分の心理的な状態や経験を自分で観察し、言語化して伝えることという。心理学の研究方法として、ドイツのヴィルヘルム・ヴント(2)が提唱した内観法(内省法)に由来する。)があり,その報告の正確さが別な証拠によって支持されるとき,これを「意識している」と定義した。だが,その定義では,すべての意識をカバーしない。報告できなくても「意識がある」場合が考えられる。言語に障害を持った人間や,人間が分かるような言葉は話さない霊長類であっても,ときには意識が認められるだろう。また我々自身,別に証拠がなくても現に意識していると自分で分かるものだ。
意識については,意識状態と無意識状態を比較することでも理解が進む。無意識状態にはなく,意識状態にあるものが何かを調べればよいからだ。我々の素朴な常識からすると,経験の内容のほとんどは意識状態に特有なものであり,無意識状態にはそうした経験の内容はないかのように感じられる。ところが心理学の知見はそれを否定するのである。古くは精神分析を興したジグムント・フロイトが,無意識状態にも信念や願望,感情があり,ときにその抑圧が精神疾患の原因になると説いた。続いてカール・ユングは,無意識とは我々の集合性と創造性の源であるとした
最近の実験心理学の知見では,1986年にヴァイスクランツが「盲視」という現象を見出した。障害で視知覚を失っている特別な患者に物体を提示すると,「見えない」と内観報告をするにも関わらず,「当てずっぽう」の答えが極めて正確なのである。実は「見えている」のに,見えている「自覚」に欠けているのだ。さらに健忘症の患者の中には,自分が何をしているか分からないにも関わらず,ジグソーパズルを解くのはうまい者がいる。同じパズルを再度行なわせると,なんとより早く解けるのである。
どうも無意識状態にも意識状態と同様な経験の内容がありそうである。では意識状態に特有なものは何だろうか。それは質的経験や,経験の反省,自己の認識などだろう。質的経験は「クオリア」とも呼ばれ,「痛み」や「赤み」の感覚である。例えば,赤い物体を感知しているときには,物体があることの感知に加えて,赤さの感覚が経験されているだろう。経験の反省は,例えば,物体を感知していることを感知しているというような,「メタ感知(「メタ」とはギリシャ語に由来しており「高次の」「超」という意味。「高次な認知」、つまり「認知を認知する」 (cognition about cognition) もしくは「知っていることを知っている」(knowing about knowing) というように訳されます。客観的な視点で、知覚・情動・記憶・思考などの認知活動を認知する行動のことをいう。)」である。
西洋思想で「心」というと,物的世界と対比させた心的世界を指し示し,「意識」をも含んだ広い概念である。現代の心の哲学では,「意識」と「志向性」が大よそ「心」(心的なもの)に対応していると考えている。志向性とは,何かが何か別のものに「ついて」であるという性質である。例えば「トマトが赤い」という信念は,「トマトが赤い」という事態に「ついて」のものである。あらゆる信念は志向性を持つがゆえに,心的なものであるのだ。
それに対し東洋思想では,意識と心とを分離して考える。心は精神的活動プロセスや認知の機能である一方,意識は存在するものである。上述の「意識状態に特有なもの」というのが,東洋思想の「意識」に大よそ当たるのだろう。東洋思想の「心」はずっと「物的」である(東洋思想では「物」自体が,西洋思想よりもずっと「心的」なのではあるが)。
例えばサムキヤ・ヨーガ(インドの正統六派哲学の一つであるサーンキヤ(サムキヤ)学派とヨーガ学派の根源を同一とみる説か)では,心(サトラ)は,物に関する知であり,物(プラクリティ)の一部である。またそれは,物とは独立した意識(プルシャ)から影響を受けるとされる。(←よく分からない)
認知に関する実験心理学に,脳神経生理学と,コンピュータによる認知機能のモデル化研究とを加えた研究領域を,認知科学と言う。だが最近では,心を研究対象とする分野を,学際領域まで含めてもっと広く「心の科学(マインドサイエンス)」と呼ぶ傾向も現われてきている。
それに対して,「意識科学」を標榜する動きも出てきている。アリゾナ州ツーソンで1994年から隔年で開催されている「意識科学に向けて」という国際会議である。この国際会議には,心理学者はもとより,生理学者,生物学者,物理学者,コンピュータ科学者から,社会学者,哲学者,宗教学者までが数百人規模で集まり,意識に関するさまざまな話題を議論する場である。研究領域は「心の科学」と大部分重なっているが,「意識科学」というだけに,哲学的な研究が多く含まれている。国際会議の主催は,アリゾナ大学の意識研究センターであるが,そこでは意識研究誌(JCS)と言う論文誌も発行しており,そちらの内容はかなり哲学に重点が置かれている。
さらに1997年からは,意識の科学的研究学会が結成された。こちらも哲学者が中心になっているようである。
意識や心の科学というのは,まだはっきりとした「科学」になっていないために,研究コミュニティや研究アプローチが混沌とした状態である。
現在模索されている「意識科学」の営みには,科学と非科学の境界を再設定しようとする狙いが含まれている。そうでなければ,意識は科学の対象にはならない。この境界再設定に伴って,超心理学が科学と扱われる可能性があるかもしれない。実際,「意識科学に向けて」の国際会議では,超心理学のセッションが設けられ,数人の超心理学者が研究報告している(2002年の会議では,マリリン・シュリッツを座長にした5件の発表と,チャールズ・タートらによるワークショップが開催された)。このように超心理学は,意識科学という大きな傘の下に居場所を見つけようとしている。
けれども他方では,意識研究と超心理学の結びつきに疑問を呈することもできる。PSI(3)の能力発揮は無意識に行なわれる傾向が強く,意識がむしろ邪魔になるようでもある。
このように,人間を介在しないような現象もみられ,物理学や工学出身の超心理学者には,物質的な説明体系の内に超心理現象を収めようとする者もいる。
(1)内観報告
内観法とは、自分の心理過程を自分自身で観察することである。心理学の研究方法として、ドイツのヴィルヘルム・ヴントが提唱した。ヴントは、意識内容を実験対象とし、被験者を実験室に呼んで刺激を与え、内的体験の報告(内観報告)を検証した。内観法は、意識の構成要素やその属性を明らかにするために有効な方法であった。
しかし、内観法には限界もあり、内観によって得られる資料には客観性や公共性が欠けること、乳幼児や動物などは意識体験を正確に言語報告できないこと、心的生活は意識体験のみでなく無意識や行動も含むことなどである。そのため、行動主義心理学の隆盛下では、内観法は科学的心理学の対象から除外された。
しかし、内観法は完全に消えたわけではない。現在でも、人格心理学や臨床心理学などでは、被験者の内観による情報を求めることが多くある。また、日本では、吉本伊信が浄土真宗の一派に伝わる求道法を土台にして創始した内観療法(内観法)がある。これは、自分の心の中にある苦しみや問題を自己対話や自己分析によって解決しようとする心理療法である。
内観法は、自分の心を知るための有用な方法であるが、それだけでは十分ではない。他者との関係や社会的環境も心理に影響する。また、内観することで自分の心が変化する可能性もある。内観法を使うときは、その限界や影響を念頭に置く必要がある。
(2)ヴィルヘルム・ヴント
意識の精密な記述こそが実験心理学の目標とヴントは考えた。意識を「内的経験」であると理解しながらも、研究と数量化が可能な「行動」を直接的に観察することを研究対象とし、観察には、
①外的観察(反射のような刺激に反応するような物体に生じる因果関係を評価する)
②内的観察(内観や自己観察を記録して評価する)
の2つがあると考えた。
行なっていた光知覚の実験では、反射的な反応だけでなく、意志的な反応を起こすまでのタイムラグに着目し、個人差があるとともに共通に何を語るのかも関心を抱いた。このような感覚実験から意識は、「表象と意志、感情という行為に関わる3つの要素から成っている」と主張します。これらの3つの要素が一体となり、出来事の統一的な経過の印象が形成されるということである。感情に関して内観を通じて、
・快-不快
・興奮-沈静
・緊張-弛緩
の3つによって記述されるとした。
ヴントは、このように自分の精神の内的観察する「内観」という方法を用いて意識を観察・分析し、意識の要素と構成法則を明らかにしようとした。ヴントの心理学は要素主義(構成主義)と呼ばれ、さまざまな心的要素の働きが「統覚(アパーセプション)(獲得する、知覚する、理解するの、意か)」によって統合されるとした。内観法は哲学的な内観とは異なる客観性は持っていたものの被験者の主観的な感覚に偏りや観念不能な概念を扱っているなどの批判があったり、要素主義(構成主義)の要素だけでは全体的視野を欠くとして批判されたりするが、しかしその批判により、要素の全体性に注目した「ゲシュタルト心理学」や観察可能な行動のみを研究対象としたワトソンの「行動主義」への発展に繋がっていった。
(3)PSI
PSIとは、Production(生産)、Sales(販売計画)、Inventory(在庫)の頭文字を取ったもので、「PSI計画」などと使われ、生産・販売・在庫を同時に計画することを指します。PSI計画は、日本語で「生販在計画」と呼ばれることもあります。(←これでよいのか)
引用 明治大学情報コミュニケーション学部教授 メタ超心理学研究室 石川 幹人
心理学大図鑑 キャサリン・コーリンほか