樺美智子の家族 

世相

樺美智子は1937年(昭和12年)に東京都北多摩郡武蔵野町の(現・武蔵野市)学者の家系に生まれた。2人の兄がいる。中学から父の神戸大学赴任にともない兵庫県芦屋市に移る。

芦屋市立山手中学校、兵庫県立神戸高等学校を卒業後、一浪して東京の研数学館(お茶の水校)へ通ったが、授業に満足できず、6月に紅露外語予備校に移ったが、午前中だけの授業に飽き足らず、2学期から駿台予備学校に移る。1957年に東京大学文科二類(現在の文科三類)に入学、同級生には歴史学者の長崎暢子や経済企画審議官の加藤雅などがいる。

1957年11月の誕生日に日本共産党に入党した。その後共産主義者同盟(ブント)の活動家(書記局員)として1960年の安保闘争に参加する。高木正幸は樺がブント創設以来の活動家であったことを自著で紹介している。76名が検挙された1960年1月26日の全学連羽田空港占拠事件の時に東京大学文学部自治会副委員長として参加し検挙され拘置所に入った事があるが、この時は不起訴処分となっていた。

同年6月15日のデモで全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入して警官隊と衝突した際に死亡した。22歳没。死亡当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。

 今年(1990年)の7月3日、夏に暑さはもう始まっている。この日の午後、東京・西原にある代々木斎場で、84歳で逝ったある女性の葬儀が営まれた。花で飾られた祭壇には一枚の写真が掲げてある。送料の読経もない、戒名もない、無宗教に葬儀である。斎場には大正時代の唱歌が流れている。故人はこよなく唱歌を愛していたという。・・・・・・新聞にこの女性の死が報じられた。その肩書きは「樺光子さん(60年安保の時、国会前でなくなった樺美智子さんの母)」というものであった。

  母親光子は、娘が東大文学部自治会副委員長だったことを知らなかったという。娘が死んだ時初めて学生運動に加わっているのを知ったという。当時、光子は「6月15日の朝、美智子が出かけて行く時、私は”危なくないようにしておくれ”としかいえなかった。ところが、今では政治というものの意味がひしひしわかるような気がするし、まず、政治は行動でなければならないと思えてきました」と語っている。その後は野党候補の選挙の応援演説に出かけ、政治思想を学ぶためにサークルにも加入したという。気丈な性格で、娘の死にも泣かず、「美智子は誰のために、何のためにころされたのか、その納得がゆくまではなけません」と漏らしていた。政党や政治団体が彼女をとりまいた。唱歌がほどよい音で流れる祭場で、彼女は百人足らずの出席者から献花を受けた。

 美智子の父敏夫は、当時中央大学の社会学の教授であった。学者や研究者のデモに参加した。国会に向けてデモ行進をしている時、「女子学生が死んだ」というささやきが津波のように流れ、それが娘とは敏夫は思わなかったそうだ。敏夫は学者の一人として、学生が死ぬまで手をこまぬいていたことを恥じた。美智子の死後敏夫は光子と共に政治思想の研究会に入ったり、美智子を左翼運動のシンボルとするような集会に出席したりもしている。しかし次第にそのような運動を避けるようになり、中央大学から創価大学に移り研究に没頭したという。1980年76歳で病没した。

エピソード

樺は学者を目指して徳川慶喜に関する卒論に取り組んでおり、事件当日には所属していた国史研究室の先輩にあたる伊藤隆(当時修士2回生)と、「卒論の準備は進んでいるか」「今日を最後にするからデモに行かせてほしい」「じゃあ、それが終わったら卒論について話をしよう」という会話を交わしていた。

母・光子による遺稿集『人しれず微笑まん』(1960年)と書簡集『友へ―樺美智子の手紙』がある。また雑誌『マドモアゼル』が生前の樺美智子に最後のインタビューを行った。光子は、デモに向かう美智子に対して「警官を憎んではいけない。自分たちよりも条件の悪い、貧しい育ちの青年が多い。その人たちを敵と思ってはいけない」と諭したと、鶴見俊輔が元『朝日ジャーナル』編集部員である村上義雄のインタビューで語っている。

この事件はラジオでも実況中継され樺美智子の死は多くの人に衝撃を与えることとなったが、1960年6月17日に在京マスメディア7社は共同宣言を発表し、その中で学生らのデモを「暴力」であるとして「暴力を排除し議会主義を守らなければならない」と述べた。

樺の死因について山本夏彦はコラムで以下のように述べている。中略した部分は山崎博昭(学生活動家で、第1次羽田事件で死亡した)の死因について触れた部分である。

女子大生が死んだとき、野党はただちに声明を発し、殺したのは警官だといった。あのどさくさのさいちゅうである。なんの証拠もありはしない。ただ「てっきり」と思っただけである。野党にとっては、警官が撲殺してくれなければ面白くない。/あとでふみ殺したのは同じ仲間で、警官ではないと一転したが、やがてそれはくつがえされ、いまだに落着しない。互に証拠をあげ、互に否定しあっている。/(中略)/論より証拠というけれど、証拠より論である。論じてさえいれば証拠はなくなる。/これはすこぶる好都合である。いつ、いかなるときでも、我々は恐れいらないですむ。/ただし、一人ではいけない。徒党してがんばらなければいけない。がんばれば大ていの証拠はうやむやになる。そのよしあしは、むしろ各人お考えいただきたい。証拠より論の時代は、当分続く。

 当時、全学連主流派と対立していた日本共産党は、樺の死に際して「樺美智子さん(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺さんへの批判を混同してはいけない。樺さんの死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」と述べ、政府・警察と全学連側の行動の双方を非難した。

 日中友好協会幹部であった橋爪利次は中国側に対して、「日本海をこえた日本での問題の評価は、私たちが決める問題です。特に樺さんは、本人やご家族に取っては気毒な結果になったが運動の破壊となる過激分子のなかでおこった問題であって、民族英雄とはいえない…」と抗議した。

 保阪正康によると、樺の死に対し中国からカンパが寄せられた(当時の日本円で約1,000万円)が、日本共産党が全額手中に収め、「これは前衛政党に送られたもの」と主張した。もめた挙句に救援会が作られたが、樺の霊前に供えられた香典はわずかに5万円であったという。これに対し、日本共産党は「わが党はこういう香典のあつかいはまったくやっていない」、「恥ずべきデマ」と否定している。

 松本健一によれば、右翼活動家、歌人でもある影山正治は日米安保に反対する立場から樺の死について、「樺美智子さんの死に対しては、心から哀悼の言葉を述べたい。私は彼女こそ日本のためになくなった愛国者だと思う。こういう人が私達右翼陣営から出なかったことを残念に思う」と評した [信頼性要検証]。当時科学技術庁長官であった中曽根康弘は、閣議で「本日以降、社会情勢は一変するであろう。死とか血とかを見ることは日本人には非常なショックを与える。死んだ女子学生と同年の娘を持つ父兄も異常に影響されるだろう」と演説している。

石原慎太郎は樺の死について雑誌『展望』に寄稿した際、「自分で自分を踏み殺した女子学生」と表現したところ、その論旨にいかにも共鳴したといっていた編集者が、この言い回しだけはどうしても抵抗を感じると言い出した。石原は譲らずに通したが、出来上がった雑誌にはこの部分が削除されていたことを回想している。

なお、いくつかの文献では、樺が活動家であったことを記述せず、単に「女子学生」「女子東大生」としか記していない。

 警察側は転倒が原因の圧死と主張し、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。 結果的に学生側の死亡者を出したことで、警察はマスコミから批判されることとなり、その死は安保闘争の象徴となった。 なお、翌日の6月16日には閣議で訪日予定であったアイゼンハワー大統領に延期要請を決定。6月18日には60年安保最大の33万人が国会を取り囲んだ。 6月23日に批准書交換が行われ、日米新安保条約発効とともに岸信介首相の退陣が表明した。

 葬儀は6月24日に日比谷公会堂で〈国民葬〉と銘打って行われ、毛沢東からは「全世界に名を知られる日本民族の英雄となった」の言葉が寄せられた。 ’60母の光子の手による遺稿集『人しれず微笑まん』はベストセラーになり、’69『友へ―樺美智子の手紙』も刊行された。 この事故を教訓とした警察は、人質事件や学生運動の際に、常に監察医を現場に待機させるようになった。

                                            参考文献

                    「昭和戦後史の死角」  保阪正康

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