1945年2月下旬、木更津の航空基地で連合艦隊司令部主催の作戦会議が開かれた。間もなく沖縄にアメリカの総攻撃が予想され、海軍もこれを迎え撃たなければなない。前年度10月から始まった特攻作戦が主軸になることは予想され、事実主席参謀は「次期沖縄決戦では教育部隊も閉鎖し、全員渡航編成を行う。本土には訓練に使用し得る燃料は一人月間15時間分しかない。初歩練習機は本土にとどめおき、全実用機は片道特攻攻撃を行う」と言う過酷な作戦方針であった。この会議の末席にいた芙蓉部隊指揮官美濃部正少佐は迷いながらも覚悟を決めて立ち上がり次のように述べた。
「私はフイリッピンでの実践で敵が常時300機の直衛戦闘機を配備しているのを体験しています。劣速な練習機まで繰り出しても十重二十重にグラマンの警戒幕を突破することは不可能です。特攻のかけ声だけでは勝ち得ません」これに対し主席参謀は色をなして怒った。「必死尽忠の士が空を覆うて進撃する時、何者がこれをさえぎるのか。第一線の少佐指揮官の言とは思えない」これに美濃部は怒った。「私を臆病者呼ばわりするが、私は死を恐れていない。若い搭乗員の中にも死を恐れるものは誰もいません。ただ一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義があり、しかも死して意義ある武勲をたてたい。単なる精神力の空念仏では心から喜び勇んでたてないものがある。同じ死ぬのなら確算ある手段をたてていただきたい」・・・「千機以上の練習機があるが、これにここにいる指揮官達が乗って100機でもいいから出てきて欲しい。私は零戦一機で、富士山頂で待ち全機撃ち落とします。」と吠え、海軍内部にくまなく知れ渡った。
太平洋戦争の末期。全機特攻の方針が示された作戦会議で、末席から異議を唱えた将校がいた。「芙蓉(ふよう)部隊」と呼ばれる航空隊の隊長、美濃部正少佐。当時29歳である。
軍の命令に逆らうことが困難だった太平洋戦争末期に、特攻に異議を唱えた部隊だ。芙蓉
鹿児島県曽於市岩川地区に「芙蓉之塔」と刻まれた慰霊碑がある。建てられた場所は「芙蓉部隊」の滑走路だったのである。芙蓉部隊の拠点はもともと静岡県の藤枝市であったが、岩川地区に置かれたのは、沖縄戦にひそかに加わるために作られた秘密飛行場でしあった。
部隊は機体からガソリンを抜き、林の中に隠すなどした上で、牛を飼って牧場に見せかけるようカモフラージュした。暗闇にまぎれて出撃するだけでなく、訓練飛行も薄暮や夜間に行うなど、徹底して秘密を貫いていた。当時、アメリカ軍は、航空写真で日本各地の軍事拠点を丸裸にしていたが、岩川地区の秘密飛行場は空襲を受けなかった。
隊長 美濃部正少佐の手記
およそ1000人の隊員を率いていた当時29歳の美濃部。昭和20年2月末、沖縄戦での特攻作戦が決まった木更津基地での海軍の会議で並み居る幹部に対し、経験の浅いパイロットを次々と特攻に出しても勝算はなく、隊員に厳しい訓練を積ませて夜間攻撃を行ったほうが有効と主張。
末席から異議を唱えたと記している。
戦争末期の厳しい状況で、なぜ美濃部の主張が認められたのか。理由のひとつは厳しい訓練を積んでいたことであった。夜間の飛行に適応するため、午後6時に起きて午前10時に眠りにつく昼夜逆転の毎日。さらに、開戦前は1年間で400時間行うとされていた飛行訓練を、新人は6か月、他機種からの転換者は3か月の短期間で行うよう課した。美濃部の手記によると、特攻部隊の3倍の厳しい訓練だったということである。こうした厳しい訓練を軍の幹部たちが視察。さらに偵察でアメリカ軍の情報を入手していることなどが認められ、部隊を特攻の編成から除外する異例の変更が行われた。芙蓉部隊の中には美濃部にたいし、涙ながらに「自分も特攻に加えて欲しい」と申し出る者もいた。しかし美濃部は、この部隊はアメリカ軍の空母や戦闘機に正面攻撃するのがこの部隊の作戦方針といい、特攻作戦は採らなかった。
他の特攻部隊からは「貴様達は度胸がない」と日本刀を突きつけられる事もあったという。
訓練と戦果、そして戦術的な合理性にもとづく主張が、芙蓉部隊の運命を変えた。しかし志願して殉じた者もいた。
1944年10月から特攻作戦が始まった。大西瀧次郎の発案で10月25日敷島隊の搭乗員がアメリカ軍の空母に突っ込んだ。11月大西は美濃部をマニラの司令部に呼んだ。美濃部は内心では怒りが充満していた。もし、大西長官が特攻攻撃を命ずるなら、拒否をしようと心に誓っていた。大西は、パラオ諸島の敵飛行艦隊を制圧する方法はないかと尋ねたのである。「私が我が部隊を率いてやります。我が隊の零戦を率いて銃撃します。といっても月光の斜め銃では地上爆撃にそれほどの打撃を与えることはできませんが・・・」といった。すると大西は「月光で特攻攻撃をかけたらどうか」といった。「長官、特攻作戦は万能とは思いません。二機、三機出すことに何の価値がありますか。もし命令を下すなら、私に直接命令してください。」大西は「よしわかった。君の隊はとりやめにしよう。
セブ島を中心に思う存分戦うがいい」と断を下した。大西は「今晩は君と一晩ゆっくり話し合ってみたい」といい、美濃部は、特攻作戦は決して戦果を上げることにはならないと語り、「とにかく突っ込むだけというのでは、あまりにひどい」と訴えた。大西も「むごいものだ」とつぶやいた。
8月15日の玉音放送は美濃部には予期しないものであった。8月18日大分に各航空部隊の指揮官を集め、これは聖断であると説明した。海軍大将井上成美は、とくに美濃部を別室に呼んで「聖断に添うように・・・。若い搭乗員をなだめて無謀な行動をおこさないこと」をきつくたしなめた。
戦後昭和20年代に自衛隊に入り、海上自衛隊の幕僚として新たな道を歩んだ。美濃部は語る。「ああいう愚かな作戦をなぜ編みだしたのか。私は今もそれを考え続けている。今の日本も経済だけで者を考えるという意味では同じ過ちを犯しているとも思う。特攻作戦をエモーショナルな部分だけで語ってはいけない。人間統帥、命令権威、人間集団の組織のこと、理性的に詰めて考えてみるべきである。あの愚かな作戦と、しかしあの作戦によって死んだパイロットとは全く次元が違うことも理解しなければ行かない」
「当時は上の命令は絶対ですから。特攻に反対することは非常に勇気が必要だったと思うんです。人として上官として、リーダーとしてすばらしい。美濃部精神を伝えていきたいなと思ったんです。私ももう70代ですから、そんなにいつまでも元気に動き回れるわけでもないですし。だから今だなと思って、今1日1日が勝負だなって」
芙蓉部隊の歴史を語り継ぐ活動を行っている「芙蓉会」があり、遺族や体験者への調査は難航した。「芙蓉会」の前田孝子さんは元隊員や遺族への連絡を試みるようになった。連絡がついたのは北海道や東京、愛知など全国の50人。遺影や遺品などが寄せられ、中には部隊が使用していた爆撃機「彗星」の部品や、爆撃に飛び立つ前に家族へあてた手紙もあった。爆撃前に家族へ書いた手紙も寄せられ、遠く離れた家族の身の上を案じる手紙には「生あらば後便りにて 便り楽しみに待つ」という一節も。戦争末期ながら、どこか未来への希望も感じられ、苦しい戦況に前向きに立ち向かおうとする美濃部の精神が隊員に浸透していた様子が感じられる。ただ、調査は簡単には進まなかった。
戦後、特攻が大きく取り上げられるようになったことで、“特攻をしなかった”芙蓉部隊に所属していたことを言い出しにくくなった人もいたようである。
前田さんには、部隊の存在を知らなかった遺族から「芙蓉部隊ということを家族は知らず本当に残念です」といったメッセージが寄せられた。「今残っている遺族に電話をしても、『そんな人は知りません』という答えが返ってきますから、電話を切られないように心がけながら、『実はお宅のおじさんはこうこうして』と説明するんです。その辺の世代になったら芙蓉部隊を全然知らないんですよ」
さらに難航したのが体験者の話の聞き取りであった。
芙蓉部隊はもともと静岡県に拠点を置いていたこともあって、鹿児島県内で健在の元隊員はいなかった。
前田さんは調査が広がればと期待し、自らの取り組みをまとめたDVDを作成して連絡がついた遺族に送った。そうした地道な活動が実り、曽於市で行われる慰霊祭に数年ぶりに元隊員が参加することになったのである。
元隊員通信士だった渋谷一男さん(95)と、整備士だった山本卓さん(93)が語る指揮官、美濃部正は、渋谷さんは、美濃部が部下への信頼を感じさせる出来事もあったと振り返った。戦局が悪化して燃料が少なくなってきていることを包み隠さず説明。当時の指揮官としては異例のふるまいである。そして、部下の無事を案じる美濃部の姿も目にしていた。
「美濃部さんは、搭乗員が1人でも帰ってこないと非常に肩を落としますよね。必ず滑走路の一番最後のとこに軍服を着て、戦闘態勢の中だから椅子に腰かけて、全機帰ってくるのを待っているわけですよ。その表情たるやね…。普段はおとなしいんだけどね、いざとなると強烈な発言をする人でした。ほかの兵隊がとてもじゃないけど太刀打ちできないくらいの能力を持っておる指揮官で、非常に人情の強い方だった」
特攻作戦を命じ、自らは後方に逃げ帰った指揮官の弁明なんぞ聞きたくもない。
一方、16歳の整備士だった山本さんは、当時は任務をこなすことに精いっぱいで、戦術について深く考える余裕はなかった。戦後になってから美濃部が軍の会議で特攻に異議を唱えていたことを知ったが、こうした美濃部の生き方は、いまの世の中にも教訓を投げかけていると話した。
「特攻全盛の時代で、指揮官が自分の意志を貫いて秘密基地で普通の攻撃を行った。こんな人は日本で1人しかいないでしょう。伝えたいことは、やっぱり信じたことを突き通すこと。立派なことだと思いますね」
後世に語り継ごうと新たな動きも出てきた。芙蓉会結成時からの目標、「平和資料館」の設置である。これまでの活動で、遺影や資料はおよそ100点まで蓄積された。いまは、郷土資料などと一緒に曽於市の埋蔵文化財センターに保管されているが、資料館を設置して広く公開することで、歴史を伝え、子どもたちへの平和教育にも活用してほしいと考えているのである。ことし2月、前田さんは芙蓉会のメンバーとともに、曽於市の五位塚剛市長に要望書を提出。そこには、「芙蓉部隊は夜襲戦法を行い、そのため徹底した努力をしてきました。しかし、芙蓉部隊でも悲しいことに105人の若い隊員の戦死者が出ました。不条理な戦争をこの世からなくすためにも、戦争の実態や悲惨さを語り継いでいきたい」と書かれていた。
「遺族や元隊員も高齢化する中で、戦争を知らない世代にしっかりと伝えなければいけないと危機感を覚えています。平和資料館を通して芙蓉部隊のこと、“美濃部スピリット”を知ってもらいたい。大きな意見に流されない、子ども達には美濃部さんが伝えようとした教訓をひとりひとり感じ取ってもらいたいですね」
遺稿となった平成11年の手記『大正っ子の太平洋戦争記』の中では、未来への願いとして「平成っ子達よ、君たちは別の意味の太平洋戦争を繰り返そうとしている!!」と結んでいる。自分の意志を貫いた美濃部が私たちに残した警鐘。重く受け止めなければならないと改めて感じる。
参考文献
「昭和戦後史の死角」 保阪正康