東電OL殺人事件の闇

世相

 東電OL殺人事件とは1997年(平成9年)3月9日未明に、東京電力の社員だった女性が、東京都渋谷区円山町にあるアパートで殺害された未解決事件である。ネパール人被疑者が犯人として逮捕・有罪判決を受け、横浜刑務所に収監されたが、のちに冤罪と認定され無罪判決を得た。その後、真犯人を特定できないまま2012年に公訴時効成立になった未解決事件である。(注:冤罪だった事件には時効撤廃は適用されない。)

   1997年(平成9年)3月19日午後5時すぎ、東京都渋谷区円山町にあるアパートの1階空室で、東京電力東京本社に勤務する女性(当時39歳)の他殺遺体が発見された。通報したのは、このアパートのオーナーが経営するネパール料理店の店長であった。

のちに被告人となるネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ(当時30歳)はこのアパートの隣のビルの4階に、同じく不法滞在のネパール人4名と住んでおり、被害者が生前に売春した相手の1人であった。死因は絞殺で、死亡推定日時は遺体発見から約10日前の同8日深夜から翌9日未明にかけてとされる。

1997年(平成9年)5月20日、警視庁は、殺害現場の隣のビルに住み、不法滞在していたゴビンダを殺人事件の実行犯として強盗殺人容疑で逮捕した。逮捕されたゴビンダは一貫して無実を主張し、一審無罪、控訴審での逆転有罪、上告棄却、再審決定を経て、2012年に無罪が確定した。

  被害女性渡辺泰子さんは、慶應義塾大学経済学部を卒業したあと、東京電力に初の女性総合職として入社した社員であったが、退勤後は円山町付近の路上で客を勧誘し売春を行っていたという。被害者が、昼間は大企業の社員、夜は娼婦とまったく別の顔を持っていたことが報じられ、被害者および家族のプライバシーをめぐり、議論が喚起された。報道は過熱し、ついには彼女がベッドで撮った全裸写真を掲載する週刊誌までさらされた。社会はこの事件に異様に反応した。男女雇用機会均等法が導入されたのが1980年代、企業の中に大量に入り込んだ高学歴の女性総合職は、男社会の異物であった。私の姉も大学を出て直ぐ結婚したが、結婚相手から「女に大学はいらない」と言われ、我が家は父が亡くなった後であったが、痛く傷つき憤怒した。

   渡辺泰子さんは、東電の中でも原発反対派として有名であった。そのため、渡辺泰子さんを煙たく感じていた原発推進派が大勢いた。渡辺泰子さんは東電の本社にある企画部調査課に所属しており、企画部経済調査室副長というポストについていた。国の財政や税制及びその運用等が電気事業に与える影響をテーマにした研究を行い、地熱発電の研究論文で高橋亀吉記念賞で佳作を受賞し、プルサーマルの危険性に付いて警告を発するなど原発の危険性を指摘した報告書を書いていた。泰子さんの亡き父も東電に勤めており同様の報告書を書いている。しかし泰子さんの父は、役員候補と言われていたのに原発の危険性を指摘したことで降格させられてしまう。それほど当時の東電にとっては、原発反対派は煙たいものだったのであろう。せっかく降格させて位置を奪ったのに、次は娘が同様の研究をするなんて「邪魔だな…」と思っても不思議ではない。憶測の域は出ないが、このような理由から、渡辺泰子さんを邪魔に感じた原発推進派の手にかかったのではという噂も立った。1957年6月7日、渡辺泰子さんは東電に勤務していた渡邉達雄氏の長女として生まれた。親子仲は良好で、渡邉達雄氏は泰子さんの勉強をよく見て、娘を溺愛していた。泰子さんは慶応義塾女子高等学校卒業後は慶応義塾大学経済学部に進学し、まさに高学歴の才女だった。しかし、泰子さんが大学2年生だった1977年7月、父の渡邉達雄氏はガンで他界する。自分を理解してくれる父を亡くした悲しみは相当のものだったであろう…。大学卒業後は、父と同じ東京電力に就職する。きっと尊敬する父の跡を継ぐ気持ちで同じ職場を選んだのではないだろうか。その後は、生前に父が関わっていた原発の危険性を指摘する報告書を書いていた。こう見ていると、渡辺泰子さんはかなり優秀で父思いの素敵な女性である。しかし、そのイメージと異なり、泰子さんにはいくつかのネガティブなウワサがあった。渡辺泰子さんは表向きではデキる女、いわゆるキャリアウーマンであった。しかし、その裏側では心に闇を抱え、一般人には理解しがたい奇行があったと言われている。その心の闇を表すかのように、渡辺泰子さんは28歳のときに拒食症を患って入院していた。会社では原発反対派として煙たがられ、彼女の心はずっと孤独だったのであろう。せめて寄り添ってあげられる人がいれば、よかったのだが、唯一の理解者であった父は既に亡くなっていた。泰子さんの心の闇やストレスは溜まる一方だったのではないだろうか。そんな孤独やストレスから拒食症を患ってしまったのではと考えられる。泰子さんの身長は169センチあり日本人女性にしては長身だが、死亡時の体重は44キロほどしかなかったそうだ。1991年頃から売春を始めているようだ。勤務後に渋谷区円山町あたりに現れては客を探し、ホテル街に消えていく…という感じだったようである。ほぼ毎日、終電までの間に平均して4人の客を取る生活をしていたそうで、普通の女性では考えられない生活である。渡辺泰子さんはそれなりのポストに就いており年収は当時でも1,000万円以上あったと言われているのに、お金のために売春するとは考えられない。また、拒食症を患っているので体力もなく。だからこそ「奇行」と言える。

渡辺泰子さんの直属の上司が2012年まで東電会長に就いていた勝俣恒久だったのという奇遇だ。

 事件に戻る。犯人を特定する直接の証拠はなく、東京地方検察庁は状況証拠を複数積み上げることで、東京地方裁判所に起訴した。ゴビンダは無罪を主張した。その理由として

・当日は海浜幕張で働いていたため、23時45分には円山町のアパートには帰れない

・ゴビンダさんはアパートの鍵を持っていなかった

・10日間も自分が殺害した遺体がある隣で生活しているのはおかしい

・被害者の定期券が巣鴨で発見されるが、ゴビンダさんは巣鴨に土地勘がなかった

などである。

2000年(平成12年)4月14日、東京地方裁判所(大渕敏和裁判長、森健二・高山光明裁判官)で、現場から第三者の体毛が見つかったことなどを「解明できない疑問点」として挙げ、「第三者が犯行時に現場にいた可能性も否定できず、立証不十分」として、無罪判決が言い渡された。しかし、4月18日に検察側が控訴した。主任検察官は50代女性で、公判は、芝居がかった年増の新劇女優を連想させたという。しかし第4回公判から主任検察官は交代したという。女性検察官は裁判が進むにつれていらいらしていたようで、検察側に動揺があったようだ。変わった若い検察官は要領の得ない質問に傍聴席から失笑が漏れたそうだ。その後警察、検察のストーリーにあわせるような証拠集めなど、ストーリーに合わない証拠は出さないなど、その動きには刑事事件の闇だけでない巨大な圧力を感ずる。

 大渕敏和裁判長は同年12月の玉突き人事の際、東京地裁八王子支部部総括判事に異動となり、この点につき佐野眞一は彼が左遷されたと指摘している。大渕裁判官は、判事就任以来20年間にわたり、東京高裁管内の裁判所および最高裁判所でのみ勤務していた。しかし八王子支部のあとは、それまで一度も勤務したことのなかった広島で初めて高裁部総括判事となり、福井(地裁所長)、大阪(高裁部総括判事)の各裁判所を転々としたが、東京高裁管内の地裁所長、東京高裁の部総括判事以上には昇らず、定年に2年あまりを残して依願退官し公証人に転じた。

2000年(平成12年)12月22日、東京高等裁判所では、いくつかの状況証拠を理由に有罪とし、無期懲役判決を言い渡した。その判決公判で、逆転有罪判決を言い渡されたゴビンダは、「神様、僕はやってない」と叫んだという。

2003年(平成15年)10月20日に、最高裁判所第三小法廷で上告が棄却され、無期懲役の有罪判決が確定した。

2005年(平成17年)3月24日、横浜刑務所に収監されたゴビンダは、獄中から東京高裁に再審を請求した。収監中の男性に対し、日本国民救援会が支援を行った。また、日本弁護士連合会も、2006年(平成18年)10月に冤罪事件として、専門家の派遣・費用の援助など、さまざまな形での支援を決定している。

2012年(平成24年)6月7日、東京高裁(小川正持裁判長)は再審の開始を認めた。また、ゴビンダの刑の執行を停止する決定をした。東京高等検察庁は、職権で勾留を続けるよう要請したが却下され、ゴビンダは同日中に刑務所から釈放された。この決定に対して、東京高等検察庁は異議申し立てをしたが、同年7月31日、東京高裁は再審開始の判断を支持し、検察の異議申し立てを棄却した。重大事件の再審では、判断に数年かかるケースもあるなか、2か月弱での決定はきわめて異例であった。8月2日、東京高等検察庁は最高裁への特別抗告を断念することを発表し、再審開始が確定した。

 再審開始決定後も検察側は有罪主張を維持していたが、無罪主張に転換した。

再審初公判は、2012年(平成24年)10月29日に開かれ、検察は、「被告以外が犯人である可能性を否定できない」として無罪を主張、結審した。同年11月7日、東京高裁(小川正持裁判長)は白鳥決定(白鳥事件の再審請求に関する特別抗告を棄却した際に最高裁が示した判断の通称。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則は再審制度にも適用されるべきであり、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるとした。)の判断基準に従い、被告人を犯人とすることには合理的な疑いがあるとして無罪判決を言い渡した。検察は上訴権を放棄し、ただちに無罪判決が確定した。

12月末、ゴビンダ側から刑事補償請求がされたことが判明。2013年(平成25年)5月、補償額上限額の約6,800万円が支払われた。

2017年、ゴビンダは夫婦で支援者らの呼びかけで来日、文京区民センターで開催された「くりかえすな冤罪!市民集会」に出席し、「日本は素晴らしい国なのに、冤罪の人がたくさんいます。二度と私のような冤罪者を作らないようにしてほしい」などと語った。その後、ゴビンダが「神様」と慕う佐野眞一の取材に対して、渋谷区の事件現場で受け、一番会いたい司法関係者は、との問いに、一審で無罪判決を出した大渕敏和裁判長と答えるなどしたが、再審無罪後、東京公証人協会評議員会議長となった大渕元裁判長に面会することはかなわなかった。

  この事件の詳細は、佐野真一の「東電OL殺人事件」を読み、関心を持ったが、その後の佐野真一の続編は評判も悪く読まなかった。また『日刊ゲンダイ』で、ジャーナリストの溝口敦が、『週刊朝日』の 佐野眞一の連載「ハシシタ 奴の正体」が、対象の橋下徹の反撃によって一回で腰が砕け、中止になったことについて、「この騒ぎは雑誌ジャーナリズム全体の信頼性をひどく毀損した」とし、「佐野氏はライターとしての責任感覚に乏しく、自分が何をしでかしたのか、おそらく今も自覚していまい」と批判している。それ以来佐野真一も読まない。それにしても渡辺泰子の母がマスコミ各社に送った文は痛ましい。文を載せる。

「私は、この度、渋谷殺人事件で被疑者となりました渡辺泰子の母でございます。この度の事件では皆様をお騒がせしましておりまして、誠に申し訳なく存じます。私にとりましても、ただただ驚きであり、悲しみを表す言葉もございません。犯人を憎み、恨むのはもちろんですが、その上、このところの新聞、週刊誌、テレビ等の報道は、私の知らない娘の姿が伝えられており、中にはこころ震えるような報道もございます。私は目を閉じ、耳を塞ぎたい思いでございます。悲しみと、怒りと、恥ずかしさは言葉に尽くせるものではなく、ただただ消え入りたい気持ちでございます。娘はどうやら人様にお話しできないようなことをしておりましたようで、社会の皆様には恥ずかしくこの点、申し訳なく心からお詫び申し上げたいと存じます。ただ、それでも娘はあくまでも事件の被害者でございます。殺人者の手によって命を落としてしまったことによって、社会的には十分に制裁を受け、償いと言うにはあまりにも大きな償いをいたしております。その上に、どうしてここまでプライバシーに及ぶことを白日の下にさらさなければいけないのでしょうか。何とぞなき娘のプライバシーをそっとしておいてください。これ以上の辱めをしないで下さい。そして娘を安らかに成仏させてやって下さい」の言葉に今回これを書こうか迷ったが、意を決した。母親の無念と悲しみが心の底からわき上がってくるような文である。                 

実はこの事件に関して謎な情報がある。この事件では、亡くなった女性は渋谷で売春していたという情報が多数あるが、実は全く正反対の情報もある。渋谷の円山町を仕切っていたヤクザの組長の言い分では、渡邉泰子さんが立ちんぼしていたことはないと言っているという情報である。立ちんぼというのは、縄張りがあるであろうから、このようなことでヤクザが嘘はつかないと思う。さらに気になるうわさがあるのでそのことを語る。この東電OL事件で殺された渡辺泰子さんだが、慶応大学に通っているときに勝俣恒久に誘われて東電に入ったという情報である。そして東電入社後に、勝俣恒久と渡辺泰子は上司と部下の関係になっているということである。そしてここからは噂レベルの話だが、実は男女関係にあったのではないか?といったことも言われている。一流会社では通常、部下がこのような事件にかかわったら出世できない。それが会長まで昇り詰めたのだから驚きだ。皮肉にも福島第一原発の裁判で今は被告である。また渡邉泰子さんは原子力に関して反対運動したことで、原発推進派のヒットマンに殺されたのではないかとの話もある。関西電力の反原発町長の暗殺計画が合ったくらいだから、東京電力も何をするか分からない。日本国内で原子力に反対する人が悪質な嫌がらせを受けてきた。それは酷い物であった。渡邉泰子さんはどうだったのだろうか。日本の巨大利権とタブーである原発の問題が隠されている様にも感じる。日本のマスコミもこと、原発となると及び腰になる。渡邉泰子さんのご冥福をお祈りいたします。

タイトルとURLをコピーしました