団鬼六の小説「真剣師 小池重明」で小池を知った。1947年に愛知県名古屋市で生まれた。父親は健常者でありながら傷痍軍人を装い、物乞いをしては博打に明け暮れる不定職者で、母親は自宅などで客の相手をする娼婦だったという悲惨な家庭環境で育った。小池の将棋との出会いは父親から「男なら博打の一つも憶えておけ」と言われ教わったことをきっかけに将棋に熱中する少年期を過ごした。やがて小池はめきめきと将棋の腕を上げ、高校1年頃には父親に負けなくなったという。そして非凡な才能は一気に開花し、高校1年で学生将棋大会優勝。学校をサボって将棋クラブに入り浸り、5万円という大金をかけて大学生と戦い勝利する。金をかけて将棋に臨む「真剣師」のスタートである。間もなくして小池は「将棋で生計を立てたい」という一心から高校を中退する。アマ名人戦愛知大会で優勝し全国大会に出る。ただ生活はふしだらで人妻と不倫をし、居づらくなって故郷岐阜を去る。東京・上野にある将棋センターの住み込み従業員として働きながら、プロ棋士になるために将棋の腕を磨く日々を送った。知人の奨めにより22歳の頃にプロを目指して松田尚紀に弟子入りした。松田尚紀は、当時は四段でありながら強豪プロ棋士と互角以上に渡り合う実力者であった。松田は小池の才能を見抜き、厳しく指導した。その後、夜遊びを覚えるなどしだいに素行が悪化。やがて勤務先の将棋道場の金を着服し、道場を解雇されると同時に、プロを目指して入門した松田にも破門される。プロ入りを断念した小池は名古屋に戻り、会社勤めをする。この頃、小池は結婚する。これを機に再び東京へ戻った小池は、勤勉に働いた。だが数年後、子供が出産から数日で死去するという不幸に見舞われる。実子の死という精神的ショックから抜け出せなくなった小池は数年間勤務していた会社を辞め、賭け将棋が行われている将棋道場へ連日出入りするようになっていく。そして新宿の将棋クラブで「真剣師」として「新宿の殺し屋」の名を響かせた。そして同時期に日本最強の真剣師と評されていた大阪の「鬼加賀」の加賀敬治と日本一の真剣師を決するべく、1979年に当時大阪・新世界にあった坂田三吉で有名な通天閣将棋道場で対局する。ここでも小池は加賀に一歩も譲らぬ戦いを演じ、1日目は小池が3勝1敗、2日目は4勝6敗で計7勝7敗と互角に渡り合い、決着を望む声が上がったが加賀が「勝てる自信がない」と降りた。
こうして強豪真剣師の座を不動のものとした小池であったが、妻とは別居の末に離婚。憂さ晴らしに連日泥酔するまで酒を飲み歩くなど次第に荒んだ生活を送るようになる。その後真剣師から一転、アマチュア将棋の世界に身を投じた小池は2年連続でアマ名人のタイトルを獲得し、名実ともにアマチュア将棋指しのトップに立つ。プロ棋士を相手にも次々と勝ち星を重ね、さらに雑誌の企画で角落ち戦のハンデ戦ながらも大山康晴名人との対局にも勝利した。この事がきっかけとなり、花村元司(1944年に編入)以来となるアマチュアからプロへの編入の話が持ち上がるなどしたが将棋界がこの生活態度の悪い異端児を許さず認められなかった。プロ入りを熱望していた小池は大きなショックを受ける。そのことから泥酔して民家に不法侵入し寝てしまい留置所とか、前夜にウイスキー1本空けて対局場に現れるなど無頼を極める。酒を浴びるようにのみ日雇いの肉体労働にも従事する。借金を何度も踏み倒し、人妻との駆け落ちも繰り返し、このすさんだ暮らしの挙げ句、アマチュア将棋界から追放される。
その後団鬼六を頼り将棋の世界に復帰する。団鬼六の企画でアマチュアのタイトルホルダーを相手に将棋を指しては、その都度勝利を収め「新宿の殺し屋、未だ健在」と再び話題を呼ぶ。この時小池の圧倒的な強さを団は「こと将棋に関しては、小池は化け物だ」と評している。そのときの様子は、団鬼六の小説「真剣師 小池重明」に詳しい。繊細で小心なようでいて、やることは荒っぽく大胆な振る舞いは将棋に合っていたのかもしれない。
小池重明が平手で倒したプロで、最も強かったのが1982年に指した森雞二だろう。当時は名人挑戦をしたこともあるA級棋士で、小池に敗れた直後に棋聖の初タイトルを獲得した実力者だ。対局条件は三番勝負の一番手直り。1局目は角落ちで、小池が勝てば次局は香落ち、敗れると飛車落ちとハンデが調整される。初戦は小池が大逆転勝ち。第2局の香落ちも小池勝ち。第3局は平手になった。戦型は小池の四間飛車に森の居飛車穴熊。ねじり合いが続くなか、森が小池の攻めをかわして優勢になる。あとは仕留めるだけかと思いきや、実際は毒饅頭を食ってしまった。最後は小池が森の玉を仕留めて、逆転勝ちを収めている。
三番勝負の直前、森は小池と練習将棋を指して平手で楽勝だったこともあり、負けるわけがないと思っていた。それが対局当日にボロボロの身なりで登場され、角落ちで逆転負けして頭に血が上った。アマプロ戦で、プロ棋士が負けてはいけないとの思いもあるなか、妙に粘り強い将棋を指されて、焦って平常心ではいられなかったのだろう。これがアマプロ戦の怖さだろう。もし小池が同じプロなら、森も妙なプレッシャーを感じずに一蹴していたのではないか。
アマチュアに敗れた森はかなりのショックだったと思うが、直後に初タイトルを獲得し、さらにはその祝勝会に小池を招待したというのだから大物である。2021年、小池との勝負を次のように振り返った。
「角落ちは秒読みで間違えて逆転負けしてしまって。当初は別の日に2局目を指す予定だったけど、熱くなってしまって続けて香落ちをやったのです。さらに負けて、その勢いで平手もやられてしまいました。日をあらためれば冷静になって、香落ちや平手では負けなかったと思うのですが、負かされてカッとなってしまってはいけませんね」
将棋は振り飛車党で、序盤は粗くて稚拙ながら、中終盤に怪力を発揮して劣勢を跳ね返した。実は「永世七冠」の羽生善治も小池の将棋を2回見ている。小学生時代にアマチュア名人戦の記録係を務め、後にタイトルホルダーになっても招かれたアマチュア大会で見学した。羽生は力を認めながらも、「将棋の作り方がプロの目から見てどう評価したらいいのかわからないのです。不思議な魅力を感じました。あの頃に一局、戦っておきたかったと思います」と語っている。「一局指したかった」はリップサービスだと思うが、大棋士の脳裏に刻まれるほどインパクトのある将棋を指したということは間違いない。小池の将棋は序盤から相手に思い切り攻め込ませて、相手に時間を使わせて焦ったところを逆に一気に攻め込むという棋風だったといわれている。
酒と金と女、流浪の果てに肝硬変で入院するが点滴の管を抜き取り44年の人生を投了する。