鈴木邦男と野村秋介には興味があった。野村秋介は別記事にしたので、ここでは語らないが、鈴木邦男は一水会の創設に関わり、防衛省乱入事件、三島由紀夫と共に自決した森田必勝とも縁があり、ソ連大使館に抗議、乱入し逮捕されるなど目立った政治活動家であった。また彼は色々な分野の人間と交流があり、それも私の興味を呼んだ。鈴木邦男のホームページが見つかり、読んでいくうちに鈴木邦男と野村秋介の対談が企画される様子が書かれていた。対談を企画したのは『現代の眼』のオーナー、あの総会屋で名を馳せた木島力也である。それは鈴木邦男を良く表していると思い、それを載せたいと思う。文がおかしいと思うところは、私が変えた。それでは始める。
『大杉栄の故郷、新潟県新発田市で市長選挙が行われた。私の応援していた鬼嶋正之さん(63才)は残念ながら敗れた。新市長には二階堂馨さん(58才)が当選した。鬼嶋さんが当選したら、かなり面白いことが出来る。と大いに期待していたのに、残念だ。結果が決まった翌日、鬼嶋さんから電話があった。「お世話になったのに申し訳ありません。激励の言葉も頂いたのに。出遅れたのが響きました」
僕なんか何もしていない。激励の言葉を色紙に書いて送っただけだ。それに、鬼嶋さんとは一度しか会ってない。それなのに、わざわざ電話をくれた。律儀な人だ。誠実な人だと思った。電話では、鬼嶋さんの伯父さんの木島力也さんの話になった。かつて学生運動が盛んだった頃、一世を風靡した月刊誌『現代の眼』があった。これが当時の運動を作ったとも言える。左翼も右翼も、運動をしている人は皆、読んでいた。その上、アカデミズムにも権威のある雑誌だった。左翼も右翼も、運動をしている人は皆、読んでいた。その上、アカデミズムにも権威のある雑誌だった。
オーナーの木島さんは、右翼的な、しかしスケールの大きな人だった。でも、雑誌は左翼雑誌。編集部は、丸山実編集長以下、全員が左翼。それも、活動家の溜まり場のようだったという。ここに勤めていて、その後、ライター、作家として自立した人も多い。有名なところでは、車谷長吉さんだ。編集会議になると、まるで新左翼セクトの激突の場だったという。大声で激論し合ったのだろう。車谷さんの本に書いてあった。会って詳しく聞いてみたい。
新左翼セクトの激突の場でありながら、質の高い、アカデミックな雑誌をつくっていた。当時、『現代の眼』を読んでないと学生ではない、と言われた。と同時に、大学教授、作家、評論家の内でも権威ある雑誌だった。「原稿料はいらないから原稿を書かせてくれ」と有名大学教授が言ってくる。これは丸山実編集長が言っていたから、本当だ。反体制・反権力の雑誌だ。その中で、最も権威のある雑誌だった。
その反体制の新左翼雑誌に、野村秋介さんと私の対談が載った。昭和51年(1976年)2月号だ。これが「新右翼をつくつた対談」と言われた。この雑誌がなかったら、いわゆる「新右翼」運動はなかっただろう。
多分、編集部は大反対だったろう。「何で右翼の対談なんか載せるのか!」と。あるいは、「反体制右翼」だから面白いと思ったのか。オーナーの木島力也さんの裁量で決まった。木島さんと野村さんは知り合いだった。それで実現したのだろう。私だって、その経過はよく知らない。『現代の眼』(1076年2月号)の特集は「80年代—《破局》のイメージ」だ。80年代には、まだまだ時間があるのに、早々と「破局」を先取りしている。
目次を見ると、過激な思想家、評論家もいるし、大学教授、作家もいる。山川暁夫、津村喬、玉城哲、松浦玲、丸山照雄、大野明夫などが書いている。「非人称の時代への予感」として、五木寛之と丸山邦男の対談がある。「未発表資料による北一輝の天皇観」を松本健一が書いている。井上光晴が小説「プロレタリアートの旋律」を連載している。
又、「劇画 黒旗水滸伝」の連載がある。大杉栄が主人公だ。作・夢野京太郎、画・かわぐちかいじである。夢野は竹中労のもう一つの名前だ。当時は知らなかったが、大杉栄の故郷は新発田だ。この『現代の眼』のオーナー・木島力也氏の故郷も新発田だ。これは決して偶然ではない。自由な、アナーキーな、反逆の血脈が流れているのだ。
これが34年前の『現代の眼』だ。その、パワーあふれる雑誌で、野村さんと私の対談が載った。「反共右翼からの脱却」という題だ。目次には、こう書かれている。
〈新春異色対談。現代右翼・民族派の思想を視る。
極左極右の異常接近かと恐怖する情況にあえて新右翼の思索を送る〉
「極左極右の異常接近」というのは、前年(1975年)に、私の『腹腹時計と〈狼〉』(三一新書)が出た。「右翼が極左過激派を評価した!」と言われ話題になった。でも、右翼からはバッシングの嵐だった。「ただの左翼コンプレックスだ!」「左翼を評価するとは何事か。反日だ!」と、言われた。
ただ、野村秋介さんだけが1人、評価してくれた。だから、この対談が実現したのだ。野村さんは、河野一郎邸焼き討ち事件で12年間、千葉刑務所にいて、出所したばかりだった。今、当時の『現代の眼』が1冊だけある。244頁から、263頁まで、対談は18頁もある。それも1頁は3段組みだ。大分量だ。今なら、こんなに長く載せる雑誌はない。十分の一くらいにカットされるだろう。本文を開くと、「反共右翼からの脱却」の横に、サブタイトルが付いている。「われわれは現体制の手先ではない」。かなり挑発的だ。本文も、過激だし、よくこんなことを言ったものだと思う。全体を読みたい人は私の『新右翼』(彩流社)を見たらいい。巻末資料として全文が入っている。写真が入っているが、2人とも若々しい。野村さんはキチンと背広とネクタイだが、私はブレザーにタートルのセーターだ。ラフだ。多分、4年以上も新聞社に勤め、毎日、背広、ネクタイの生活だった。そこを辞めて、やっと自由な生活に戻れた。学生時代に戻った感じで、「活動家ルック」をしていたのだろう。確か、この直後からはヒゲも生やしていた。これからは暴れてやるぞ!という意気込みが見える。
対談の小見出しだけ見ても、凄いね。「堕落しきった右翼運動」「安保を認めたら足をすくわれる」「暴力を否定してはならない」(当時は私も、こう言っていたんです。勇ましかったのです)。
「戦後体制に毒されている右翼陣営」「反共主義と民族主義は違う!」
「なぜ右翼が〈狼〉を論じたか」
「三島につながる〈狼〉の思考」
(これは野村さんが言ったのだ。三島の叫びはすぐには右翼に伝わらない。〈狼〉にエコーして、それから右翼に来る。と言っていた)
「右翼が公害反対運動をすべきだ」
今、読んでも引き込まれる。私1人なら、とてもこんな過激なことは言えなかった。野村さんと一緒だから、言えたのだろう。連続企業爆破事件の「東アジア反日武装戦線〈狼〉(1970年代に爆弾テロを行った日本のアナキズム系の武闘派極左テロ集団。反日亡国論やアイヌ革命論などを主張し、三菱重工爆破事件など連続企業爆破事件等を実行した。また、1974年(昭和49年)には昭和天皇に対する暗殺計画、「虹作戦」を計画した。)」の人達をかなり評価している。(最近話題になった、桐島聡の属した組織である。)
彼らは、イザという時のために毒入りのペンダントを持っていた。事実、1人はそれで自殺した。戦前の血盟団(血盟団と呼ばれる暗殺団によって政財界の要人が多数狙われ、井上準之助と團琢磨が暗殺された。)のようだと思った。右翼の〈牙〉は絶対に必要だと、私はこう言っている。
「我々の本来の姿勢を忘れて牙をすててしまい、〈在野〉も〈反体制〉もなくしてしまった。こうなっては右翼だなどと言っても玄洋社(黒田藩士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。幹事に頭山満がいる)の頃の伝統の継承もないし、あるのは抜け殻だけということにもなりかねないですね」
凄いことを言っている。「守るべき生活なんてあるのか。全てを捨てて、運動しろ」などと言う。私は、その後、「表現」はかなり変わった。「本質」は変わらないと思うが。いや、「お前は転向したのだ」と言われることがある。このことは、又、別のところで論じてみたい。
去年の末、『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)を出し、そこで、右翼の白井為雄先生との対談『対話の効用』について書いた。白井先生は、戦前は、神兵隊事件(血盟団事件、五・一五事件などの流儀を受け継ぎ、大日本生産党・愛国勤労党が主体となって、閣僚・元老などの政界要人を倒して皇族による組閣によって国家改造を行おうと企図した事件)に連座し、逮捕された。武力闘争、テロ、クーデターによる維新を考えていた。ところが戦後は、〈対話〉により、〈言論〉によって運動をすべきだと主張した。それに対し、私が食ってかかっていた。今読むと恥ずかしいが、若き日の過激な、ひたむきさが伝わってくる。
白井先生に対しては猛反発したが、それが野村さんに対しては、我が意を得たとばかりに、賛同し、意気投合している。「新右翼武闘派宣言」だ。これでは公安に目をつけられるのも当然だ。それにしても、太っ腹な人だったと思う。木島力也氏は。こんな危ない新左翼の雑誌を出し、さらに危ない右翼の武闘対談まで載せている。野村さんに紹介されて、木島さんとは何回も会った。物静かな紳士だった。でも、この人が新発田(新潟県)出身とは知らなかった。このあと、何回か『現代の眼』に書かせてもらった。この「新右翼をつくった対談」から34年経った2010年。今年だ。その木島力也さんの甥の鬼嶋正之さんと会うとは思わなかった。』
これが2010.12.20の鈴木邦男のホームページ「鈴木邦男をぶっとばせ」に書かれていた。「鈴木邦男をぶっとばせ」で探せば見つかると思う。URLはhttp://Kunyon.com/shucho/101220.htmlである。
鈴木邦男は元一水会会長で先日亡くなったが、異色な存在であった。先日指名手配されていた桐島聡の東アジア反日武装戦線の話も出てきて興味深い。一水会は、昭和45年11月25日「楯の会事件」での三島由紀夫・森田必勝両烈士の自裁を“戦後体制打破”へ向けた果敢な行動と位置づけ、両烈士らの魂魄を継承するため、昭和47年5月30日、「保守の拠点か、変革の原基か」という思想的命題を掲げ結成された。一水会のホームページには
維新を永久的浪漫対象とする吾人等は、「維新を阻害し停滞させる諸体制諸権力と対立し、それを打破すべく行動する」』という立場で、変革者としての矜持を持ち尊皇義軍の精神による、対米自立、自主憲法制定、日米安保破棄、戦後体制打破を目指している。
現代日本は軍事的にも精神的にも対米従属下にあり、安倍政権が強行した「集団的自衛権行使容認」やたびたび言及する「憲法改正」は従属の強化にはなっても決して日本の自主独立に繋がるものではないとする。自主憲法は「国軍」再建とともにあるべきであるし、日米安全保障条約・日米地位協定の見直し、そして戦勝国の戦争犯罪の糾弾なくして真の日本独立はありえないとする。東京大空襲、広島・長崎の原爆投下等の非戦闘員虐殺に対し、米大統領自ら現地を訪問し謝罪すること、沖縄など日本国土から米軍基地を完全に撤去することを、要求し続けるとする。(一部省略)
以上のように一水会は述べる、一水会は従来ある右翼団とは一線を画すと考える。鈴木邦男は「新右翼」と呼ばれる民族主義運動を展開した。また、多くの著作を出したり、佐高誠と対談をしたり、討論番組で独自の幅広い言論活動を行った。そのため常に気になっていた。だから交友関係も幅広い。
次に鈴木邦男への【追悼】を載せる。鈴木邦男の人となりが分かると思う。
辛淑玉(フリーライター、政治活動家。)は語る、「鈴木さんはいつも笑顔だった。盗聴法反対の記者会見の時、私の両隣に鈴木邦男さんと佐高信さん、その横には、宮崎学さん。そして、両脇を抱えるように中核とカクマルの人たちが並んだ。どう見ても、朝鮮人に右翼と左翼ヤクザと過激派が並んでいるとしかみえない。私は「こいつらが反対するなら絶対必要な法律だと、みんな思うだろうなぁ」と、暗澹たる気持ちでいたら、一人だけニコニコニコニコ立っている人がいた。鈴木さんだ。彼は動じない。すげーと思った。友人の北原みのりは「寂しい」といい、朴慶南は「鈴木邦男さんをみつけると嬉しくて。すぐかけよって行ったのを思い出す。人柄が魅力だった。肌触りが暖かな人だったよね」と。ドイツの友人は、邦男ガールズの本の話を聞いたあと、「私も邦男ガールズに入りたかった。三浦瑠璃よりは私だろう」と、叫んでいた。鈴木邦男は罪深い男だ。これから何人の女を泣かせるのだろうか。鈴木さんへの思いは、佐高信さんと番組にしました。言論人として鈴木さんは、言論人の中で追悼してほしい。私たちは、この20数年、鈴木さんと一緒に過ごした時間を楽しく語って送りたかった。これからも、鈴木さんのことを楽しく語りたいと思う。」
まだまだ生前の鈴木邦男を語る色々な分野の人がいるが、ここまでにする。是非鈴木邦男を調べて、それらを知って貰いたい。冥福を祈る。
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