大義の末(城山三郎) 

世相

 2007年3月22日城山三郎こと杉浦英一が亡くなった。1927生まれの城山は多感な時期が戦争中と重なる。2007(平成19)年5月21日に開かれた「お別れの会」で佐高誠は辻井喬こと堤清二や渡辺淳一と共に弔辞を読んだが、この会には中曽根康弘や小泉純一郎も参加していて、佐高は彼らにぶつけるように「城山さんは内部にマグマを抱えた人。城山さんを語る時、勲章拒否と現憲法擁護の二点だけははずしてほしくない」と強調した。 澤地久枝さんは、『中国新聞』に載せられた追悼文で、次のように書いている。 「……城山さんは帝国海軍の十七歳の志願兵として生きた体験を、戦争と天皇、組織と個人という終生のテーマ反戦土台に決然と論陣の土台において、身じろぎもしなかったと思う。二年前の九月、「城山三郎 昭和の戦争文学」全六巻が完結し、代表作「大義の末」「落日燃ゆ」から、「指揮官たちの特攻」までが収録された。これは、城山文学に新たな命をもたらす再生と言えた。「個人情報保護法」阻止のため、城山さんは決然として論陣を張られた。なんとしても戦争は食いとめたいという年来の意志。そのためには言論・表現の自由が絶対不可欠という立場からであった。……」

 「法案が通ったら『言論の死』の碑を建てて賛成した議員全員の名を記す」。2002年5月、国会で審議入りした個人情報保護法(案)に反対して城山は記者会見した際、こんな言葉で怒りをあらわにした。戦前の治安維持法に例えて「表現の自由が奪われる。取り返しがつかないことになる」と訴えた。城山はぼけていると自民党議員からやゆされて「腹が立つことが多くてぼけているひまなんかない」と毅然と言い返した。

「大義」は陸軍中佐杉本五郎(1900~1938 38 歳で戦死)の書である。この書は130万部のベストセラーとなった書で戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。

 社民党の土井たか子は1928年11月30日生まれで、城山は皇国少年、土井は皇国少女だったという。城山は17歳で海軍に志願する。男子なら志願するのが当然という雰囲気があったからと言う。しかし軍隊は杉本中佐の「大義」のような、そして世間で言われる忠君愛国の世界ではなく、国民が配給に頼る中、上官達は貴重な食料を独占し、さらに上官は新兵を終日殴るという、いじめの組織であったという。従軍看護婦だった母は将官のだらしなさを、よく言っていた。戦後生き延びた将官は、のうのうと軍人恩給を貰い暮らしたのだろう。私の母はマラリアにかかり広島の病院で治療した期間(外地勤務期間が引かれた)があって恩給を貰えなかった。母の戦争体験は期間で測れない過酷な物であった。のうのうと戦後を生きた将官の比ではない。母のことは、「従軍看護婦だった母」で記事にしたので読んで欲しい。土井は、大本営の発表を疑いもせず学徒動員で工場に行き、苦しい作業をしていたが、戦争に負けるはずはないと頑張ったという。やがて戦況が怪しくなり、焼夷弾から逃げるのに必死だったという。赤ちゃんを背負ったお母さんが焼夷弾の直撃を受けて亡くなられた瞬間を目撃し、今でも夢に見るという。城山と土井のこの純真さは、言論の自由ないことから生まれたと言ってよい。個人情報保護と言う権力者の疑惑隠しに鬼気迫る感じで反対しているのは、この頃の体験が生み出しているのだろう。土井は「大本営の情報がいかにまやかしだったか、こんなこと2度と許してはいけないと心底思いました」と言う。自由に物を語れない恐ろしさを城山と土井は色々と語る。城山は「戦争を体験していないのは仕方ないにせよ、今の若い政治家は、戦争体験を知ろうとも、分かろうともしない。非常に危険なことだ」とも述べている。特攻についても次のように語る。特攻は決して志願ではないと、時代や社会や国が強制したのであり、志願というなら、志願させられたのである。強制なのに志願とすりかえたのを、はじめとする戦中の恐るべき欺瞞の数々、そして高級軍人が戦後戦史家になって、せっせと一方的資料を集めて「美化」とい情報汚染が行われている。

「戦争はすべてを失わせる。戦争で得たものは憲法だけだ」と城山は口癖のように言っていた。紫綬褒章を断る時、城山は「おれは国家というものが最後のところで信じられないのだ」と胸中の思いを吐露しているが、17歳で“志願”して海軍に入った城山は、皇軍、すなわち天皇の軍隊というものがどんなものかをしたたかに思い知らされ、国家に裏切られたという痛みを終生消せなかった。また、自分は“志願”したと思ったが、あれは志願ではなかった、言論の自由のない天皇制ファシズム下の当時の社会が“強制”したのだと悟って、その傷を抱えたまま戦後を生きたのである。

 「旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため」の精神で、最後までずうっと貫き通した。だから、三島由紀夫という旗振った者に対する批判は、すごく強かった。「あの人は、本当は戦争に行かなきゃならん人だね」と言っていた。三島は城山より2つ年上で、徴兵検査では虚弱体質で第二乙種となった。最後に入隊検査は受けたが、当日は風邪を引いて高熱だったために帰郷を命じられ、結局、戦争に行かなかった。

「あらっ、また、柿見さんとつきあっている」 城山は新婚時代に夫人にこう言われながら、『大義の末』を書いた。柿見は『大義の末』の主人公で城山自身であろう。作中で柿見は天皇制を次のように断定する。「天皇というものは、支配権力にとって実に便利な存在だからな。国民の総意を代表し、それを越えた存在ということにしておけば、たとえ自分たちが不都合なことをしても、天皇の意志だと責任を逃れられる。国民の批判を無視することができる。世論にすり代り、世論をおさえつける権威──天皇元首説がまた出てくる筈だ。しかも、憲法改正ということで再軍備と結びついて。……国防などと言ったって、結局、そのときの政治権力を守るだけ。国民は狩り出され殺される。そんなとき、一番適当な冠が天皇制だ。天皇という一語ですべてが正当化される」

 同郷の戦友、種村は死んだが、還って来ない息子の年の数19だけ、寺の住職夫人の母親は鐘を撞く。種村の母は、昔は境内で子どもたちが遊んでいるのを喜んでいた。しかし、息子の死の後、どんなに子供会や婦人会から頼まれても、子どもの姿を見ると追い出してしまうようになった。そんな母親を見ながら、種村の妹が語気を強める。「愛国心などと言い出す人を見ると、そんな人は戦争でただ得をしただけの人じゃないかと、にくくてなりません。どれだけ兄のような犠牲を見れば気が済む人なのかと……。みんなが幸福にくらせる国をつくれば、黙っていたって愛国心は湧いてくるじゃありませんか」 その通りだろう。愛を押しつけるとはストーカー行為であり、押しつけられた愛国心がどんなに歪んだものになるかはあの戦争で十分に学んだはずではなかったか。

『大義の末』が出たのは1959(昭和34)年だが、それから40年余り経って城山は2001(平成13)年に『指揮官たちの特攻』(新潮社)を出した。「これが私の最後の作品となっても悔いはない」と宣言しているこの作品は『大義の末』の続篇と見ることもできる。 これを城山はうなされながら書いたという。神風特別攻撃隊の第1号に選ばれ、レイテ沖に散った海軍大尉、関行男は、それを命じられて「ぜひ、私にやらせてください」と言ったように伝えられているが、実は、「一晩考えさせてください」と応えたのだった。 そして、自分よりさらに若い搭乗員を気遣いながら、こう呟いたという。「どうして自分が選ばれたのか、よくわからない」、「僕ほどの技術を持ったパイロットに攻撃をさせずに特攻をさせるとは、ばかげている」と言いながらも、命じられて散った。 亡くなって「軍神」と称えられ、関の母親も「軍神の母」と当時は賞讃されたが、戦後は悲惨だった。敗戦によって、特攻隊員やその遺族を見る目が一変し、住んでいる家に投石された挙句に、大家から「即刻立ち退き」を迫られることになった。

 この『指揮官たちの特攻』を城山はどんな思いで書いたのか。兵学校同期の関行男と中津留達雄。関は神風特攻の幕開けで、レイテ沖で散り、中津留は玉音放送の後に沖縄で散り、神風特攻に幕を下ろした。城山は語る。

 「せっかく理科系への進学が決まり、徴兵猶予ということで、これでもう安心と思っていたのに、息子が自分からそれを取り消して、七つボタンの海軍へ志願入隊するとは。父は唖然とするしかなかったのだろう。一方、後になって妹から聞いたのだが、私を送り出した母は母で、その夜は一晩中泣き続け、一睡もしなかった、という。こらえていた悲しみが噴き上げたのだが、それだけでなく『なぜ息子の言い分に負けて志願を許したのか』と、父にきびしく叱責されたせいもあったのであろう。あのクリスマスの夜から半年後、私のせいで、一転して家には暗い夜が続いて行くことに」

 敗戦の前の年のその夜、父親を軍隊にとられた城山家では、母親に誘われて、17歳の城山以下、弟妹たちが「きよし此夜」などの讃美歌を歌っていたのである。

「せっかく理科系への」には注釈が必要だろう。戦争を遂行するためには科学技術の振興が必要だとして、理科系の学校へ進んだ者は徴兵が猶予された。それで父親は、長男でもある城山にそちらを選択させたのだが、杉本の『大義』に煽られて、城山はそれをやめ“志願”して海軍に入ってしまう。私の親戚にも中曽根康弘と同期で、中曽根より成績が優秀だったのにも関わらず(だから徴兵を免れる手立てはあった・・・)特攻で戦死、中曽根は内務省に入り、海軍の主計局に転じ戦地に行くことはなかった。人間なんてそんなものか。その中曽根が、麻生太郎が総理大臣になり、漫画好きから、外交は「ゴルゴ13」を参考にすると言ったのを聞き、「ゴルゴ13」を目にし、中曽根は馬鹿な話と言ったと聞いた。今の政治家の資質は酷すぎる。パーテー資金の闇金の話を聞いても驚かない。

 城山は終生天皇制というタブーに切り込んでいたと思う。藤沢周平氏も君が代だけはどうしても歌えないと言っていた。私の母は、あんな酷い戦争経験をしながら死ぬまで天皇崇拝であった。戦前の教育のせいである。教育とは怖い物である。先日別の本を探していたら「大義の末」が見つかった。また読もうと思う。

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