筋を通す男・野村秋介

世相

  石原慎太郎の新井将敬への選挙での嫌がらせに、野村秋介が石原慎太郎に抗議したと知り、その後朝日新聞で自分の頭を拳銃で撃ち抜いて自殺したと聞いてから、野村秋介への興味がわいた。

 野村は、神奈川の高校を中退後、愚連隊に入り、その後稲川組幹部出口辰夫の舎弟になった。私は暴力団でもない普通の人間だが、学生の頃、ちょっとした縁で稲川会にゆかりのある方と付き合いがあった。車に乗せて貰い、色々な政治家の愛人宅巡りをしたり、有名な事件現場を案内してもらったりした。喧嘩をする時は相手を見極めろと言われた。喧嘩の玄人は手加減を知っているが、素人は手加減というもの知らないので怖い、だから喧嘩するなら相手を選べと言われた。喧嘩が激しくなることが予想されるなら、腹に新聞紙を何重にも巻いて、その上からさらに、さらしを巻いて腹を守れとも言われ、その筋の知識を色々聞いた。大学卒業時こちらに来ないかと誘われたが丁重に断った。もし万が一そちらに行っていたら野村と接点があったかも知れない。大学卒業で、きれいに稲川会の方との縁は切れたが、面白い経験をさせてもらった。野村は網走刑務所で服役中、五・一五事件の三上卓(戦後はクーデター未遂の三無事件に関わる)の門下生である青木哲と出会ったことを機に民族主義者となり、自らも三上の弟子となる。

 その後右翼団体を作り河野一郎邸焼き討ち事件を起こし逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。焼き討ちの際拳銃を持って押しかけて、河野の秘書らに対し拳銃を突きつけて脅迫。脅迫というより危ないから逃げなさいというような感じで、家人全員を家の外に逃がした後、応接間の中にガソリンをまき、新築したばかりの河野邸の建物は全焼した。河野一郎は日ソ共同宣言を成立させ、ソ連を敵視していた右翼からはよく見られていなかった。さらに河野が那須の御用地の林を焼き払った事も右翼からは批判されていた。ただ河野は様々な疑惑に包まれた政治家だったが、児玉誉士夫が後見人ということもあり、右翼やヤクザ、また警察にとってもやっかいな存在だったという。焼打ち事件後、児玉が顧問を務める全愛会議(全日本愛国者団体会議は1959年(昭和34年)4月19日に設立された国内最大の右翼団体の連合体である)内では、野村除名の動きも出たというが、小沼正(血盟団に参加し、井上準之助を暗殺した)、寺田稲次郎(1919年4月海軍兵学校の柔道師範となり、北一輝の門下となる。1923年大杉栄遺骨奪取事件に関与。米国の排日運動を怒り、野球の弊害を唱え、米化討伐を宣言して、1924年7月秋水会を組織して代表となる。早稲田大学総長高田早苗の不敬言動膺懲運動を起こし、同年秋早大校友会の席上で高田を襲撃した。1926年日本楽器争議では会社側を支援、朴烈事件で司法省を糺弾し、1928年平沼騏一郎排撃運動、不戦条約では田中義一内閣糺弾運動を展開した。)といった重鎮たちが野村を擁護し、除名を免れた。当の児玉も野村に対し、「純粋に青春を賭けて戦った姿に対しては、それなりの敬意を払うに吝かでない。健康に十分留意して下さい」と伝言したという。野村は河野邸焼打ちで懲役12年の判決を受けて、千葉刑務所に収監された。獄中では、頂上作戦で逮捕された日本国粋会の森田政治を始め、住吉連合会の福岡幸男、稲川会の大山健太郎、会津小鉄の岩丸幸生といったヤクザと出会ったという。

野村は「私は、北は北海道から南は九州・鹿児島の果てまで、そういった類の友人がいる。その中には、広島の仁義なき戦いを実践した人たちもいれば、山口組侵攻作戦の尖兵であった人たちもいる。しかしそれは、別にやくざだから交友があるのではなく、長い獄中生活の過程の中で、何らかの心の交流があって、知らず知らずのうちに親しくなった人々なのである」と記している。

ヤクザとの交流は出獄後も続いた。『ヤクザ・レポート』によれば野村は、住吉連合会と道仁会の関係が悪化した際に両組織の仲裁役を務めたという。また住友銀行グループとの紛争では、後藤組を始めとするヤクザ勢力が野村に加勢し、利益を得たという。

日の丸青年隊の高橋正義、防共挺身隊の福田進といった、児玉系の右翼たちも獄中の野村を支援したという。野村は出獄後に、福田の紹介で児玉系の総会屋である木島力也と知り合ったという。野村は木島が発行する『現代の眼』で、一水会の鈴木邦男と対談し、新右翼ブームを起こす。

 出所後社会への苛立ちは募り経団連襲撃,立て籠もり事件を起こし逮捕される。懲役6年の実刑判決を受け再び服役。この時の檄文で「日本の文化と伝統を「消費は美徳」の軽薄な考えを蔓延させた」と環境破壊と経済至上主義への批判は左翼と通ずるところもある。またライフルを持っての立て籠もり中、「機動隊には発砲するが一般人にはしない」と述べている。

 出所後は民族派右翼団体として,幅広い活動をする。冒頭記した、石原慎太郎への抗議もあった。衆議院議員総選挙東京都第2区から新井将敬(後日自殺)が出馬したが、同選挙区石原慎太郎候補により新井が在日であるとのシールを貼られるという中傷行為が行われた。その際、野村秋介は激怒し石原の事務所に乗り込み、猛抗議を行ったという。その後シールはどうなったか・・・想像はできるであろう。石原慎太郎はその程度の人物なのである。生前議員を辞め、田中角栄を扱って書いた「天才」をある芸人に田中角栄が生存の時、田中角栄をどう思っていたのかと、問われ嫌な顔をしたという。人としての品格が知れる。弟の俳優石原裕次郎の方が遙かに優れていたと思われる。石原裕次郎のスケッチにその才能が伺われる。

 野村の『獄中十八年』は木島がオーナーを務める現代評論社から刊行された。

 1986年、フィリピンで民族解放戦線に拉致されたカメラマンの石川重弘を、手を尽くして救出した。この件で野村秋介は、マニラの日本大使館の対応を、「無名のカメラマンという理由で見捨てた」と激しく批判した。

 参議院議員通常選挙に際して、「風の会」から比例区で立候補したところイラストレーターの山藤章二が『週刊朝日』で、「風の会」を「虱の党」と風刺した。マスコミの中で特に朝日新聞にこだわっていた、野村秋介は抗議の姿勢をより強めた。野村は抗議のため朝日新聞を訪れる。経営陣からの謝罪を受けるが、「すめらみこといやさか。「天皇称栄」」を三唱後に拳銃自殺する。58歳の人生であった。

 筑紫哲也とも生前交流があった事を筑紫の死後、週刊文春の特集で阿川佐和子が述べている。思想的立場は両極に位置していたが、お互い尊敬しあっていたようだ。

 また野村秋介といえば、数々の衝撃的な事件を起こした人物であるが、実は彼には意外な一面もあった。それは、彼がとても面白い人だったということである。そう、野村秋介は笑いのセンスに優れていたのである。例えば、彼が獄中にいたとき、看守に虐待されていた在日韓国人の囚人を助けたことがあるが、その囚人は野村に感謝して、「先生、どうもありがとうございます。おかげで仮釈放が下りました」と言った時、すると野村は、「僕の力ではない。君自身の生きざまというか姿勢が、僕を感動させて、管理部長も感動させたんだ」と答えたのだが、その言葉には隠されたダブルミーニングがあった。なぜなら、「生きざま」というのは日本語では「生き方」のことであるが、韓国語では「チンコ」のことをさすのである。野村は自分のチンコで看守を感動させたという囚人をからかっていたというのである。野村秋介の「新右翼」は反米・反安保と言うことなど従来の右翼と活動スタイルは違っていた。日韓併合をよしとせず伊藤博文を暗殺した安重根に共感もしていたという。河野一郎、経団連、朝日新聞という政治、経済、マスコミという権力に挑みかかっていたように思う。自決にも色々論があるが、愚連隊上がりの野村秋介なりの信念が感じられる。

                                 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

           引用:Livedoor Blog

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