詐欺事件が起こると、犯人は悪く言われるが、被害者は善良な人として扱われ、高齢者となると一層それが顕著になる。一般の事件ではそれで良いだろうが、国と国民の間となると簡単に割り切れない問題となる。太平洋戦争で、戦後国民は、国に騙された、マスコミに騙されたと騒いだが、戦時中に国の行く末をしっかりと予想していた人も多くいた。軍部の暴力に、5.15事件、2.26事件で萎縮してしまったのは予想できるが、子供を戦場、満州に送り出した教員、国の発表を垂れ流し続けた「朝日新聞」等のマスコミの責任は重い。また町内会での、些末なことを取り上げ「非国民」と詰ったことも、戦後になると皆口を閉ざした。当時と今は変わったのであろうか。今も国民はテレビのニュースを事実であると聞いているのではないか。映画監督の伊丹十三の父で、映画監督でありエッセイスト父伊丹万作がいた。伊丹万作のエッセイに「戦争責任者の問題」と言うものがある。その作品の全文でも良いのだが長文になるので一部分を載せる。戦中、戦後の何が問題か問うた文である。
「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はっきりしていると思っているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこっけいなことにしてしまったのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だったのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶって出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。」
「そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。」
「「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。
一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」
以上である。今あの時代を繰り返しているように思われる。だからこの伊丹万作の考察をよく参考にして考え、騙されるという脆弱な自己を省みて、自己を鍛える努力をする必要が大いにあると思う。
参考文献
伊丹万作 「戦争責任者の問題」