大学の入学には2年かかったが、就職は地元に、大学卒業後すんなりと出来た。その職場に、その後親しくなる人がいたが、彼は私が入ってくるのを、後輩が来るものと思い楽しみにしていたという。ところが入ってきた私は大学入学に2年余計にかかっていて、彼の方が1年、年下であった。彼はがっかりしていた。地元と言っても、最初配置された所は、実家から通えなかった。下宿した。最初の給料で母に、下駄(何でそうしたか?)をプレゼントし、夕食を一緒にした。ささやかなお礼のつもりであったが、母の嬉しげな様子は忘れられない。その後は、毎晩仕事を終えると、飲み歩き母に何もしてやれなかった。
私を後輩と思った人は、酒は下戸で私との夜の生活は正反対であったが、何かと理由をつけて、私が飲むのについてきた。私は元来、一人で飲む酒を好んだ。ある時、酒屋で新聞紙に包まれた酒を一本買い、下宿で本を読みながら飲んだ。1本あいた。また酒屋に行ったら主人に飲み過ぎだよと言われ苦笑した。そんな私に良くついてきた。彼は殆ど飲まないで、寝てしまうのに割り勘で支払った。それでもついてきた。彼はスポーツマンで、何をやらしても、うまかった。私は短距離を走ることと、泳ぐことだけが彼に勝っていた。彼は人一倍運動神経が発達していて、素人同然で始めたスキーでは、国体、さらにその上も夢でないと言われた。その彼に夜、スキーに何度か誘われたのには閉口した。夜は飲むものである。彼は球技も達者で、職場の大会では常に中心選手として活躍した。また美男子で女の子にもてた。
私の夜の友達は、私の後から入ってきた2年年上の人だった。彼とは飲み歩いた。彼は最初に出たボーナスを、東京へ行って全部使ってきた強者である。東京では、一流のホテルに泊まり、落語を聞き、良い物を食べて揚々と帰ってきた。彼は英語が趣味の読書家で、スポーツはからしき駄目であった。性格は温厚で、人と争うようなことは極力さけるタイプであった。その彼が、職場の友人達からスポーツを誘われ、丁重に断っていたが、誘っていた中の一人が「スポーツをやらないのは不健全」との言葉を吐いた。すると誘われていた彼は、「スポーツをやるのは健全になるためで、健全な私には必要ない」と言い放った。誘っていた人達は、唖然としてその場を離れた。その健全な彼とは、私は気があった。よく色々議論しながら飲み歩いた。落語の話は面白かった。
一方最初に上げたスポーツ万能の友人は、私をスポーツに誘い、私も彼には、スキーもそうだが極力付き合った。私の飲む時には、女性はいなかった。大学の頃から飲む時は、女性はいなかった。大学の時、後輩に誘わせたら、私と友人の活動家のいる飲み会は嫌だと断られた。そんな私が、ある縁で結婚した。周りは驚いたようだ。あの暇な時は飲むだけの男が、どうやって知り合ったのかと話していた。周りも触発されたのか、結婚する仲間が増えた。これには笑えた。スポーツ万能の友人は、仕事は熱心だったがよくポカを犯した。会議中、居眠りをして上司から叱責された。会議中うとうとしているのはわかったが、最後は机の上に頭を打ち付けた。いい音がした。また私より早く車を購入した。新車が納入されて初めての運転の時、私が誘われた。職場から出発して道を迷いながら、「道はどこかにつながっている」と気楽にドライブをし、職場についてバックで車を止めようとしたら、後ろに石があって、派手にぶつけた。友人は笑いながら、「こんなこともあるさ」と、強がりを言いながら、納車の日に車屋に修理を頼んだ。そんな彼とも職場の転勤で離ればなれとなったが交流は続いた。彼も私の後結婚して、子供が3人もうけた。
ある晩、そのスポーツ万能の友人から電話があった。突然の電話で、「俺末期癌で、余命半年だってさ」と語ってきた。私はなんと答えたか思い出せないが、何か間違いではないかとの想いで電話を切った。風呂に入って、風呂桶の中で泣いた。そして夜の町に飲みに出た。泥酔して帰宅した。その後彼の所には何度も見舞った。彼は「アロエが効く」とアロエを見せてくれたり、高額な民間療法の薬を買ったりして、奥さんを困らせた。職場は休職して、家でテレビゲームに興じて、明るそうに見舞いに行く私には接してくれていたが、幼い子供の行く末もあり、心中は穏やかでなかっただろう。そして間もなく彼は重篤な状態になり入院した。入院した彼の姿を見るのは辛かった。そして春、彼は旅だった。
飲んだくれで、不摂生な私ではなく、スポーツに積極的に関わり健康的な生活を送っていた彼が先に亡くなるとは・・・・・。その後3人の子供は陰ながら見守っていたが、3人とも立派に成長した。それだけが救いである。またあの世で一緒に、割り勘で飲みたいものだ。