従軍看護婦だった母

人生

 母は兄弟・姉妹の大勢いる大きな農家で生まれ育った。私の祖父は,農業をやりながら学問にも精を出していた。大学の教授が訪れ交流を深めていたそうである。母の兄の中にはブラジルに開拓団として行き苦労しながら、大きな農地を手にした人や、戦争でシベリヤに送られ帰還した時は赤化(共産主義に染められた)したのではと、家族がはらはらしながら、迎えたられた弟もいた。母方の叔父さん、叔母さんはよい人が多く、可愛がって貰った。父は弟一人で,絶縁状態だったのだが、父の従兄弟は大勢いた。来ると我が物顔で振る舞い、そのため母方との付き合いが深くなった。母は日赤の看護学校を卒業して、仙台から太平洋戦争の戦地に向かった。南方の激戦地を転戦して、その最中マラリアにかかり広島の病院に入院した。直った後、再び戦地に向かった。入院が長引いていたら、原爆にあって私はいなかっただろう。また入院が内地勤務扱いになり、仲間の看護婦さん達が恩給を貰えたのに、入院の分が原因で期間が少し足りず母は貰えなかった。その後、また激戦地を転々として、フイリピンで捕虜となり、帰還した。アメリカの船の中では,ビーフステーキが出され、びっくりしたと言っていた。その時アメリカは、日本を3S(スクリーン、スポーツ、サウンド(これはセックスだと思う。私が子供だからサウンドと言ったのだろう))で日本を堕落させると言っていたという。戦争の話は色々聞いた。父は中国に召集されたが、父からは戦争の話は殆ど聞かなかった。母の話の戦場の様子の悲惨は、私の想像を越えていた。酷い時は、食べ物は殆どなく,ゴキブリは大変なご馳走であったそうだ。水は貴重で、命がけで水源のある所まで汲みに行ったとのこと。ある時水を汲みに這っていたら、何かを感じ頭を下げたら、銃弾が通過していったという。人間には極度の緊張状態の時、何かしら不思議な観が働くようだ。母は、水は命の次に大事とよく語っていた。そんな母だから、自分が死んだら水をかかさず仏壇にと言っていたが、最近は忘れてしまっている。野戦病院は戦線の後方に常にあるのではなく、動けない戦傷兵の世話に、隊から置き去りにされ,元気な兵隊はどんどん後退をしたそうだ。従って重傷者をかかえる野戦病院は戦線の最前線にいることになる。その野戦病院も撤退する時は、動けない兵に青酸カリなどを与え楽にしてあげて、引き上げたそうだ。母も何人かに青酸カリを与え,死なせたと苦しげに語った。中には亡くなったか、見に行ったら元気で、さらに大量の青酸カリを注射したら、楽になったそうだ。また、人間は気持ちが大事と良く言っていた。被弾して手足を失い大量の出血する方に、「故郷に帰りたくないのか、この薬の水を飲めば血が止まる」と言って、ただの水を飲ませたら、出血が止まったのには母も驚いたそうだ。故郷に残した妻や子供のことを思うと、こんなことも起きるのだろうか。

 上官や軍医のことも話していたが、よく思っていなかったようだ。自分たちは良いものを食べ,無理な命令を出したりしていたのに、いざ逃げる時は先頭になっていたそうだ。撤退は道なき絶壁の所をはって、逃げたそうで、その時仲間の看護婦さんが何人も崖から落ちていく姿を見て、次は私かと思ったという。

 母は私がポロシャツを外に出すのを嫌った。理由はフイリッピンで、民間人がポロシャツを外に出しているのは拳銃を隠すためで、母はポロシャツを外に出す人は避けたという。そして憲兵は、そういう人を警戒して見ていたという。

 また映画のような話も聞いた。捕らえたスパイを逆スパイにしてアメリカに戻すために、顔などの整形手術が必要になった。看護婦として母が立ち会った時、それは厳重な警戒のもとで行われたという。手術をした病院の外、中、そして手術室の前にも憲兵が多数警戒をして,配置されていたそうだ。そのスパイは女性で,手術後母に「日本が勝ったら、●●さん(母)には箱根に別荘を上げるは」と語ったと言う。

 そんな母と祭りで,学校が休みの時映画「ゴジラ」を見に行った。二本立ての興業で,最初の映画が放映されていた時、大地震が襲った。急に真っ暗になり、悲鳴が上がった。その映画館には2階に桟敷席があったが、その2階から、白いシャツを着た人が落ちるのを見た。観客は我先と、子供も大人も関係なく、出口に殺到した。それは酷かった。私も立ち上がろうとすると,母が「動くな」「成るようにしかならない」と激しく揺れ動く席でとどまった。怖かった。揺れが収まり、人の騒ぎが落ち着いた時やっと動いた。私が映画を見ていないのだから、入場料を返して貰わないというと、「そんなものはいい」と言い,家路を急いだ。

 そんないつも毅然としていた母も70代癌で亡くなった。最後は家で闘病をし、私は病院から酸素ボンベを運び、出来るだけの看病をした。痰は亡くなる日まで,母は自分で取っていた。医者も驚いていた。私は泣いた。葬儀も心ここにあらずで、呆然としていた。

 母は時代に,国に翻弄されながらも、一本筋の入った生き方をしたと思う。あちらの世界では、平和な世界で楽しくやって欲しいと思う。本当に有り難う。

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