我が家と画家だった父

家庭

 我が家は、画家の父と元看護婦だった専業主婦の母、姉2人末っ子の私の5人家族であった。長男がいたのだが、早死にし、もし兄が生きていたら私はいなかっただろうと、姉たちに私は、子供の頃から言われていた。一人の人間の存在なんてものは、このようなものであろう。私は海辺の借家で生まれ、その後父が子供達によかれと、町中でなく、周りが自然豊かな、農村の中に家を購入した。私の生まれた借家を、父が描いた絵が二作ある。一作は父が亡くなる前に、人に見せるなと言っていた。父には気に入らない絵だったのだろう。父の死後我が家を訪れた父の親友の画家も、その絵を見て(人に見せてしまった)父の言葉のようなことを言っていた。

 父が購入した我が家の隣に神社があり、神社には数多くの大木が際立っていた。子供の頃の台風で何本かの大木が根こそぎ吹き飛んで、我が家を直撃した。壁を突き破った大木は怖かった。終夜吹き続ける暴風に、父と母は、畳を窓に立てかけて暴風から家を守った。そうでないと、家は吹き飛んだであろう。大地震も何回か経験をしたが、台風の方が私には怖い。

 夏の盆の時、神社で賑やかに、祭りが行われていた。最近は寂しくなってきたように思う。裏は松林、砂山が広がり、幼少期はチャンバラ遊びなどで、遅くまでよく遊んだものだ。冬の砂山はそりや短い距離だがスキーもやれた。今は、松林は切り払われ、砂山もなくなり、その跡に公園が出来た。遊具もそろい、楽しく子供は遊んでいるが、昔の松林、砂山が懐かしい。家の横、表は畑が広がっていたが,徐々にアパートが建ち,少しずつ周りは様変わりしてきた。でも、今でも自然は豊かで、孫が遊ぶには十分である。

 父の家は複雑で、瀬戸物屋をやっていたと、言いたいところだが質屋だった。だから裕福なようであったが、父の弟が博打で借金を負い、家を勘当された。父の家はその後傾いた。父の家は、父が売って、そのお金を父と弟で折半した。勘当されていたが、半分お金をやったのは、二度と弟と会うまいとの、父の決意の表れと思う。父の葬儀の時も知らせたら、来たがっていたが、母が父の遺言と言ってきっぱりと断った。私の父方の祖母は、父が面倒を見ていたが、母には何かと、文句を言って,困らせていた。祖母は家が豊かな時の暮らしが忘れられなかったとものと思う。子供心に嫌な祖母の印象がある。冬大雪で,年越しの日、朝から子供も雪掘りを手伝わされた。夕方上の姉が風呂を沸かしたり,夕食の準備をしたりする為、いち早く家に入った。暫くして、外にいた私たちに、祖母のもの凄い悲鳴が聞こえた。沸いていなかった風呂に入ったらしい。祖母は風呂をわかせなかった姉より,母を随分叱っていた。私は笑いをこらえながら、面白くてしようがなかった。この大雪の寒い日に水風呂は、それは効くだろう。

 父の従兄弟も多くいたが、夏の海の時は大勢で押し寄せ、その接待に子供達も手伝わせられた。中に変わった叔父さんがいた。持ってくる土産は,子供の私が見ても些細なものであった。でも来ると我が家を、自分の家のように振る舞って、姉たちのひんしゅくを買っていた。挙げ句の果てには、母の実家が農家だったが、図々しく押しかけ、あれこれと野菜を貰い、母を困らせていた。そして事件が起こった。叔父さんが自分の子供と、我が家の子供達を連れて海に行った時である。私の両親は行かなかった。理由は忘れた。叔父さんは自分の子供にはアイスクリームを買って食べさせたのに、私たちは、買って貰えず、叔父さんの子供がアイスクリームを食べるのを、ただ見ているだけであった。姉たちの顔色が変わった。夕食の準備を、姉たちはボイコットした。母は困惑しながらも、私たちの気持ちをおもんばかって、一人で頑張っていた。私はそんな母が可哀想で、以外と重労働の枝豆もぎを手伝った。姉たちは黙って食べると,自室にこもった。叔父さんは姉たちの様子に何も感じなかったのだろうか。叔父さんは、私のもいだ枝豆を人一倍食べながら、気持ちよく酔いしれていた。姉たちは叔父さんが帰る時も、見送りにでなかった。その後も叔父さんは我が家に訪れたが、姉たちの様子に何も感じたかったのか、全く以前と変わらない態度で振る舞った。姉たちは父母に文句を言っていたが、父はどうしたらよいか、わからない様子だった。

 父は新しもの好きで、車、テレビなど、村で初めて購入した。車(スバル360)は神社の鳥居をくぐって,神社の道を通らないと出入りが出来なかった。最初はどうしようか、困った様子だったが、納車されると、気にする様子もなく、車を出し入れしていた。今は周りの人達も車を持ち、私は気兼ねなく、車を出し入れしている。皆で通れば怖いもなしはこのことか。車の板金や塗装など修理は、業者から、やりかたを聞きながら、父は自分でやっていた。父はバイクの免許しか持っていなかったが、当時はその免許で車を運転できた。だから父の運転は怖かった。姉たちは乗りたがらなかった。アクセルとブレーキを間違えて踏むことも、最初は何度かあった。先に記したように、修理は自分でやっていたので、ブレーキが壊れ赤信号を進入したこともあった。最も酷かったのは、私が助手席に乗っていた時、車がズルズルと走りながら、速度が落ち始めた。降りてみたら車のそこが抜け落ちていた。また、父はステレオやアンプも自分で作り日曜の朝は、コーヒーを飲みながら、気持ちよさそうに、聞き入っていた。ステレオの出来栄えは、なかなかなものだった。父の奇行は、まだまだあるが、面白かったのが、自分で作ったクーラーである。車のエンジンか何かを使い,ホースを部屋の周りに巡らせ水を流したら,暑い夏、部屋は心地よく冷えていった。父は、自分の作ったステレオを聴きながら、悦に入っていた。しかし間もなく、ホースの何カ所から穴が空き、水があふれ、父は慌てて、塞ぎきれないのに、手でホースの空いた穴を塞いでいた。部屋は水浸し、父はあたふたとしていた。そこに母が現れ、水道の元を閉めたら水漏れは止まった。父の申し訳なさそうの姿は、面白かった。父は、酒は弱かったと思う。でも飲みに出かけ、ヨレヨレになって帰宅し、母、姉たちに支えられ寝かせられていた。翌朝姉たちに,文句を言われしょげた様子も度々あった。家にも来客が来て遅くまで,飲みふけていた。ある晩かなり遅くまで大声を上げながら、飲んでいた時、一人の姉がその場に乗り込んで、「うるさい」と怒鳴りつけた。家に来る父の飲み友達は姉たちには気を使っていた。父はこの頃、絵を描く事が思うように行かないで、その苛立ちが、バイク、車、ステレオ、クーラー等に向いたのではないか。

 そんな父も50代後半、癌でなくなった。最後は看護婦さんが打った注射の薬量が間違いで、それが原因だったそうだ。母は元看護婦だったが、泣き崩れるその看護婦さんの背をさすりながら、慰めたそうだ。末期癌だった父の意向で、一人の姉の結婚は急いで準備されていた。重なるもので父の葬儀と、姉の結婚式が重なり、延期も考えられたが、姉には知らせず式は挙行された。不思議な感じがした。姉の新婚旅行先から電話があった時、ちょうど葬儀の最中で、お坊さんの読経と重なった。当時の電話はコードレスでなかったので、皆慌てて,座布団で電話を覆うようにして対応した。また父のお通夜の時、飲み友達が酔っ払って、父の遺体を抱きながら一晩飲み明かし,朝父の遺体の布団の中で並んで寝ていたのは、恐れ入った。

 父は画家だったが、父の画友に我が家を訪れてもらい、迷ったが父の絵を見てもらった。何人か来られ、異口同音に幼少期の絵はセザンヌ並、芸大に行って凡作、晩年期、幼少の頃に戻ったような、面白い絵を描き始めたと言っていた。父は、これからは色々な、しがらみと縁を切り、思う存分描こうと思っていたようだ。昔の絵を新しく描くために何枚も塗りつぶしていた。塗りつぶされたキャンパスは家に何枚も残った。絵に関しては、さぞかし無念だっただろう。父の絵は、その後ある画商が来て売り出そうとした。何枚か父の絵を自分の画廊に持ち帰った。銀座にあったその画商の画廊に私が訪れた。画廊の床に無造作に置かれている父の絵を見て、私は寂しさと怒りを覚え、持ち帰った。後で色々な人に効いたら、そのような絵の扱われ方は、当たり前のことのようであった。あの時その画商に任せていたらと、時に思い出す。父の絵は私の寝室と、隣の部屋に保管し、飾っている。その絵を見る度に父のことを思い出している。父は、実家のごたごたや、子供達のこと(子供3人がそれぞれ心配をかけた)、そして絵は心残りだっただろう。しかし母に支えられ十分生ききったと思う。

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