・ティラミスはイタリア語で「私を元気付けて!」「私を天国に連れて行って!」「私をハイにして!」という意味。
(ティラミス(ヴェネト語表記で Tiramisù)は、イタリア語で「tira(引っ張って」+「mi(私)」+「su(上へ)」の3つの言葉を組み合わせた、直訳すると「私を引っ張り上げて」という言葉になる。 意訳すると「私を励まして」「私を元気づけて」という意味。お菓子が気分を引っ張り上げる=元気づけてくれるお菓子、というのが直接の意味合いである。
ティラミス発祥の地とされるイタリアでは、固めの生クリームのような「マスカルポーネチーズ」が特産品として知られており、マスカルポーネチーズを活かしたお菓子であるティラミスは、いつも元気とされる国民性を支えるスイーツとして、国内外を問わず浸透したと考えられている。そんなティラミスですが、実は少し大人な名前の由来も。
ティラミスは夜のお菓子として有名になったという説もある。イタリアでは、ティラミスは夜遊びの際に食べるスイーツとして有名だそうである。「ティラミスは夜にしか出さない」というレストランもあるとのこと。これは、ティラミスに使われている材料が要因である。卵と甘い砂糖には精力をつける役割が、コーヒーには眠気を覚ます役割があることから、ティラミスにメッセージを込めて、夜遊び前に女性が男性に振る舞ったと言われている。このことが、直訳の「私を引っ張り上げて」につながる名前の由来ともされている。)
・ローラースケートの開発者は初めて滑った時、止まり方を考えておらず重症を負った。
(ローラースケートとは、合成樹脂製のウィル(ホイール・wheel)と呼ばれる車輪に相当するものを専用のプレートに取り付け、さらにそれを靴に取り付けて地上を滑ることが出来るようにしたもの。ローラースケートを発明したのはジョン・マーリーンという楽器職人。速度や方向を変える方法や止まり方を考えていなかったため鏡に衝突し大変な重傷を負った。)
・オイルショックの時高速道路で花見をしていた
(中東の原油産油国が、原油価格を70%引き上げることを決定し、第一次オイルショックが起きたのは1973年(昭和48年)のこと。急激な原油高でガソリンの価格も高騰した。当時の田中角栄内閣が「紙節約の呼びかけ」をしたこともあり、「紙がなくなる」という根拠の無いデマが流れ、トイレットペーパーの買い占め騒動が起き、日本中のスーパーからトイレットペーパーが消えたのは有名な話。そんな騒動と同じ頃、高速道路では車が通らないことをいいことに、道路の真ん中に敷き物を広げて高速道路で花見をする人もいた。)
・世界でいちばん食べられている緑色植物はレタス。
(レタス(英: Lettuce、学名: Lactuca sativa)は、地中海沿岸、西アジア原産のキク科アキノノゲシ属の一年草または二年草。野菜として利用される。品種は多く、葉が巻くものと巻かないもの、茎を食用にするものなどがある。レタスの歴史は古く、野生種は西アジアから地中海沿岸にかけて分布されていたと言われている。栽培は紀元前6世紀頃からアケメネス朝ペルシアで始められたと伝えられている。この頃のレタスは結球していないタイプの葉レタスだったそうである。その後ヨーロッパ各地に伝わり、品種改良が繰り返され、玉レタスなどの結球するタイプやリーフレタスやロメインレタスなどの結球しないタイプなど多種多様なレタスが生まれた。日本へ伝わったのもかなり古く、奈良時代にはすでに中国から「チシャ」として渡って来たそうである。この頃のレタスは非結球の「掻きチシャ」いわゆる「サンチュ」で、生食ではなくお浸しや味噌汁の具として食されることが主流であった。現在一般的に出回っている玉レタスは、江戸時代末期から明治時代にアメリカから伝わり、さらにサラダの代表的存在として生食されるようになったのは第二次世界大戦以降になる。いずれの種類のレタスも暑さが苦手で冷涼な気候を好むため、日本の各地域の気候に合わせてリレー式に栽培・収穫され、一年を通して市場に出回っている。主な産地は長野県、茨城県、群馬県。時期的にみると春先の3~5月頃と秋の10~12月頃は茨城県辺りから、夏から秋にかけての5~10月頃は長野県や群馬県辺りから、秋から冬、春先までの 10~5月頃は香川県や兵庫県などの比較的暖かい地域から、と時期が途切れることなく出荷されている。レタスは金属を嫌うため包丁などで切ると切り口が酸化して変色してしまう。使用するときは手で葉をはがすことをお勧めである。)
・ライターはマッチより先に発明された。
(直感に反すると思われるが、実はマッチよりライターの方が先に生まれた。 マッチは今から200年ほど前の1826年にイギリスの薬剤師ウォーカーによって初めて発明された。その当時のマッチは、軸木の先に黄燐を付けた黄燐マッチでした。その黄燐マッチが実用化されたのは、翌年の1827年です。その後、小箱の側薬にマッチを擦りつけて着火する安全マッチがスウェーデンやドイツで同時期に開発・販売された。
マッチの着火方法は今と違い、砂紙というものにはさんで強く引いて点火していた。しかし、そのころのマッチは質が悪く、なかなか発火しなかった。その後、1831年にフランスのソーリアとカメレールによって改良され、どこで擦っても発火するマッチが開発された。しかし、黄燐は強い毒性を持っているため、製造工場の人間が病気になってしまったり、殺人や自殺に使われるなどの問題があった。更に、発火しやすいことが仇となってしまい、移動中の摩擦や衝撃によって火災事故が発生してしまうなど、非常に危険なものであった。それから何度も改良が重ねられ現在の安全なマッチとなり、持ち歩いていていきなり発火してしまったら…現代で考えるとかなり恐ろしい話である。ライターの歴史について語る。火縄式のライターは古くからあり、広く使われた。ヨーロッパでは17世紀末にはフリントロック式銃の機構を利用して火口に点火する thinder lighter あるいは tinder pistol と呼ばれるものが発明されていた。18世紀初頭に作られたものは多数が現存する。近代的なライターの開発は、1903年にカール・ヴェルスバッハが、高効率の火打石の合金を発明し特許を取得したことから盛んになった。ライターが初めて登場したのは1772年のことで、日本の平賀源内がゼンマイを使用した火打石と鉄を用いた、煙草用のライターを発明した。ということは、マッチの発明が1826年であるから、マッチ発明より50年以上昔に既にライターがあったことになる。しかし、この時のライターの形状は、現代のライターとはかけ離れたものであった。ちなみに、日本で最初に実用的なライターが発明されたのは1920年のことで、汽船乗組員だった本城真玄がアメリカで見つけたライターを真似して作ったものが、現在のオイルライターの第一号となった。)
・中華料理の「天津飯」「エビチリ」は日本で考案された料理。
(天津飯の生まれたきっかけについては、以下の2つの説がある。
ひとつは1910年、日本の浅草創業の中国料理の店「来々軒」が発祥であるという説。この店の料理人がある日、来店した客から「早く食べられるものを作ってほしい」と頼まれた。そこで料理人は、かに玉をごはんにのせ、酢豚に使っていた「餡(あん)」をしょうゆで味付けしてかけたものを出したという。これが「天津飯」のはじまりであったと言う説である。。
ふたつめは大正時代、大阪にオープンした「大正軒」が発祥であるという説。山東省から来ていたお店の主人が、お店のおすすめメニューとして中国・天津の「蓋飯(ガイファン)」をアレンジした天津飯に近い料理「芙蓉蟹蓋飯(フーヨーハイガイファン)」を生み出した。
日本のエビチリの元になったこの料理は、中国では「乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン)」と呼ばれている。この料理をはじめて作ったのは、あの平成の有名な料理番組「中華の鉄人」で有名な「陳建一(ちん けんいち)」さんのお父さん「陳建民(ちん けんみん)」さんである。陳建民さんが、辛みに慣れていなかった当時の日本人の口に合うように、と乾焼蝦仁を元に生み出されたのが、わたしたちにもおなじみの「エビチリ」なのだ。)