「鞍馬天狗の異名」中山素平  

世相

 日本興業銀行頭取。「ミスター興銀」と評され、財界の鞍馬天狗の異名をとった。

  戦後日本興業銀行の存亡をかけたGHQとの交渉で中山素平が粘り強く活躍し存続が決まる。その後日本の高度経済成長期にあって、戦後日本の復興を担った、大型経済案件には必ず彼の姿があった。

 川崎製鉄の鉄鋼一貫工場の建設での、建設反対の日銀総裁一万田尚登とのやりとりでの決断力、山一証券の経営危機での田中角栄を説得して日銀特融、ジャパンライン(その後商船三井につながる)や山下太郎のアラビア石油の設立、NTT民営化、また分割に反対だった田中角栄を中山素平が説得して国鉄分割、富士製鐵と八幡製鐵の大型合併による新日本製鉄発足、東京ディズニーランド設立など、数えきれないほどである。中山が山下太郎を支援した背景には石坂泰三の存在があったようだ。中山素平を師と仰いだ河上弘一と石坂泰三が親友で、その河上の紹介で石坂と会う。石坂の謦咳に接し、人を見る目を学んだようだ。そして山っ気のある山下太郎に興銀は入れ込む。倉敷レーヨンの大原総一郎も買っていて、大原は倉レがビニロン・プラントを中国に輸出しようとして反対にあった時、「幾ばくかの利益のために思想は売らない」と語ったそうだ。河上弘一にも面白い話がある。ある女子行員を免職にするかと言う時、「それは駄目だ。銀行を免職になったとなると、後々支障にならないとも限らない。依願退職にするように」と言ったそうだ。プリンス自動車と日産の合併も面白い。当初プリンスはトヨタに話を持ち込んだが断られ、日産に話が行ったという経緯がある。その理由が、トヨタが経営不振に陥り,住友銀行に救済を依頼するが名古屋支店長が断る。その時の名古屋支店長の小川秀彦がプリンスの社長になっていた。トヨタの救済を断ったのは堀田正三であろう。あの当時の通産大臣桜内義雄、事務次官佐橋滋(城山三郎『官僚たちの夏』のモデル)の通産省が合併に躍起になっていた。

 当時の興銀には有能な人材がいて、正宗猪早夫、松田勝郎、三ツ元恒彦、密田博、梶浦英夫等その多くの人が中山素平、「そっぺい」と呼び慕っていた。

  日本経済新聞「私の履歴書」を執筆を断り通した。書きたくてたまらない人間が多い中で痛快である。そして勲章は拒否。憲法改正は論外という。

 1991年に勃発した湾岸戦争の時、ズバリとこう言い切った。

「(自衛隊の)派兵はもちろんのこと、派遣も反対です。憲法改正に至っては論外です。第二次世界大戦であれだけの犠牲を払ったのですから、平和憲法は絶対に厳守すべきだ。そう自らを規定すれば、おのずから日本の役割がはっきりしてくる」

 いま、堂々とこれだけの直言をする財界人はいない。中山は2005年に亡くなったが、その時、共同通信からコメントを求められた佐高誠は、「現今の経営者を10人束ねても、中山さん1人の魅力に及ばない」と答えた。

 それどころか、争って首相とメシを食いたがる浅ましい財界人を見ていると、「10人束ねても」を「100人」もしくは「1000人束ねても」と変えたいほどであると付け加えた。

   「文士なんて言ったら要注意。財界、政界、官界は文士を人と思ってないんじゃないですか」と城山三郎が言っていたが、中山素平は城山三郎はもちろん、高見順などとのつきあいもあった。

 秩序が重んじられる世界にいて、しかし、中山素平はエリート意識に包まれた寮歌を嫌い、勲章を固辞した。

 田中清玄といった黒幕的人物とも平気でつきあって、まさしく中山素平は“財界の鞍馬天狗”の異名通りであった。

   もし今この混迷した時代に中山素平がいたならば、どんなに頼りになるかと思わずにはいられない。

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