緒方貞子は犬養毅の玄孫で国際政治学者として日本人初の国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任し、国際協力機構 (JICA) 理事長をつとめた。夫の緒方四十郎は緒方竹虎の子供である。母方の曽祖父は犬養毅である。
緒方貞子の功績はやはり紛争地での難民保護に体を張って取り組んだことだろう。犬養道子のところで書いたNHKのドキュメンタリー番組で難民の少年が,少年兵に教育され,その子を保護したときの様子と、その後を語っていたのは緒方貞子だったようにも思えてきた(でも犬養道子だったと思う)。言葉ではなく体を張った肌を通しての交流が人として、本当のつながりになるのかもしれない。そして緒方貞子はその通り生きた。また緒方貞子の現実主義を支えたのは、戦前日本の姿から得た教訓だったのではないか。今後緒方貞子は忘れてはならない人である。緒方貞子の難民問題の略歴と功績を語る。インターネットから引用した部分も多いが、殆どはテレビのドキュメンタリー番組からのもので、緒方貞子の肉声も耳に残っている。
難民保護のきっかけになったのが、1991年の湾岸戦争直後のクルド危機だ。難民は国境地帯の急勾配の岩山に追い込まれた。夜間の気温は氷点下だ。多国籍軍は人道支援として、イラク領内に「安全地帯」を設けてキャンプを設営し、クルド人を移送した。ここで緒方さんが直面したのが「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が彼らを支援するべきかどうか」という問題だった。UNHCRの難民の定義からすると、クルド人は、従来のUNHCRの保護対象に当たらないと激しい議論が起き、原則を崩すことへの強い反対論が出た。しかし、緒方さんは「定義がどうあろうが、保護を必要とする人がいて、それを助けられるのは我々だ」と押し切った。ベテランの職員に対し臆することなく毅然と立ち振る舞った。テレビのドキュメンタリー番組ではこの部分が印象に残り、特に強調されていたように思う。
そして1991~1999年の長期にわたった旧ユーゴスラビアでの紛争だ。サラエボをセルビア系武装勢力が封鎖した上で、市内に取り残されたイスラム系住民に激しい攻撃を加えた。サラエボの冬のオリンピック金メダルスケーターKatraina Wittが、次の大会で「花はどこに行った」で滑ったのは印象に残る。結果は確か8位だったがサラエボの平和を祈っオリンピック参加だったそうだ。UNHCRは92年、国連防護軍と協力して、支援物資の空輸を開始した。その後、空輸のみならず、UNHCRが陸路で物資を届ける際には同軍が護衛として同行するようになった。ドキュメンタリー番組ではこの時、大男の中に小さな緒方貞子がいて、この小さな日本の女性に何ができるのかと、映像からは思われたが違った。
それまで国連機関が多国籍軍と密接に連携することはなく、UNHCR内では「中立性が損なわれる」などの反対意見が出た。しかし、緒方さんは「人命が脅かされ、支援が必要な人がいるという現実があり、それに対応する必要がある」と新たな道に踏み出した。緒方貞子は、自分よりも難民支援経験が長く、複雑な国連政治に長じたプロたちを 白熱の議論の末に説き伏せ、自分の意志を通したのだ。
緒方さんを補佐官は「決断力と、決断を下すまでのスピード。過度な理想主義に走らず、現実との折り合いをつける能力。それまでの経歴や外見とのギャップに、幹部職員も皆、最初は驚いただろう」と振り返る。UNHCRの幹部職員らをもう一つ驚かせたのが、緒方さんの徹底した現場主義だった。北大西洋条約機構(NATO)の軍事介入を招いた末、ようやく終結したコソボ紛争の現場も訪れた。スタッフ会議では、資金も物資も人手も足りないと訴える職員がいた。現場は一触即発の状態が当時も続いており、この職員でなくともぼやきたくなる状況だった。
これに緒方さんは、「何ができないかではなく、あなたに何ができるかを教えてちょうだい」と応じた。いつも通りの淡々とした口調だったが、会議の空気が一変し、そこから議論が建設的になった。
2000年の6月、エリトリアとエチオピアの領土紛争が再燃し、エリトリアから隣国スーダンに短期間のうちに多数の難民が流入した。スーダンで緒方さんは、政権幹部に 毅然として難民保護への協力を求めた。その後、難民達のところに向かった。緒方さんを突き動かした原動力は何だったのか。緒方さん自身の答えは、「今まで出会った、あまりに多くの難民の目の中に見た恐怖と苦痛。それを、援助を受けられる安心感に変え、再び故郷に戻れるという心躍る喜びに変えることが私のエネルギー源だった」というものだ。退任間際の2000年12月20日にUNHCR本部で行った、職員へのお別れの挨拶での言葉だ。
同じスピーチでは、UNHCRの強みについて「過酷な現実と、力強い理想主義の組み合わせの中で活動しているところ」と語り、「官僚主義に陥らず、自分の頭で何ができるのかを考え続けてほしい」と職員に呼びかけた。彼女の並外れた能力や情熱は、「身長5フィートの巨人」と称賛された。