元刑務官坂本敏夫が東京拘置所で永山則夫と初めて出遭ったのは、1978年。まだ永山の刑が確定する前、被告人であった頃である。
当時坂本は都合6年勤めた大阪刑務所から、東京霞ヶ関法務省の官房会計課に異動しており、予算要求の資料作りのために、東京拘置所に毎年1ヶ月半泊まり込んでいた。職員の待遇改善も担当の1つで、困難な勤務に与えられる特殊勤務手当、つまりは死刑執行手当の改善を図ろうとした。
刑壇に立たせた死刑囚の首にロープをかけ、別室の壁にある3つから5つの執行ボタンをすべて押して床を垂直に開く…。死刑囚が奈落に落ちてその首に何百キロという負荷がかかり、絶命するまでを見届ける。ロープの長さは身長に合わせて長からず、短からず、前日からの調整を求められる。
これら死刑を執行する刑務官の苦患と葛藤を転勤族の坂本自身も含め上層幹部たちは分かろうともしない。そこで死刑という仕事をさらに知るために職員並びに直接、被収容者(死刑囚及び死刑判決を受けた被告人)と面接することを望み、その中の一人に永山を選んだのである。
1968年10月8日、当時19歳の少年永山則夫は、横須賀米軍基地に忍び込み二十二口径の拳銃と実弾50発を盗み出した。何をするという目的があったわけではないが、保持を続け、同月11日、寝場所にしようとしていた東京プリンスホテルの庭園で質問をしてきたガードマンを警官と間違って射殺。
翌日の新聞で撃った相手が死亡したことを知った永山は死ぬしかないと考え、自死の前に一度見たいと思っていた京都へ逃走。14日に八坂神社境内で話しかけてきた警備員を射殺。その後、各地を転々として、函館と名古屋で自分が乗ったタクシーの運転手に向けて発砲、連続して第三、第四の殺人事件を犯した。これは第一、第二の事件と異なり、明らかな殺意を持った犯行だった。
書類作成の仕事こそしていたが、坂本の属性、アイデンティティーはあくまでも矯正職員にあった。19歳のときに4人を連続して殺害した男は、どんな被告人なのか。自分は彼をどう導くことができるだろうか。
しかし、会ってみると過去、数多くの受刑者との面談を経験して来た坂本にとっても大きな驚きを禁じ得なかった。
「永山則夫の第一印象はとにかくひどいものでした。テレビドラマなどの看守と囚人は乱暴な口の利き方がされていますが、実際はあんなものではありません。通常、刑務官と被収容者の関係は矯正という教育を伴うものですから、教師と生徒のそれに類似したものになります。生徒の側の被収容者の言葉遣いは当然丁寧で、私も刑務官になってから、失礼な言われ方をされたことは一度も無かった。
ところが、永山の第一声は『何だ! お前』でした。コミュニケーション能力がまったく無く常識もモラルも感じられませんでした。しかし、一審と二審の判決謄本を読んでその背景を知って私は考え直しました。永山は今でいうところの育児放棄、ネグレクトを受けていたわけです。
父親は失踪し、母も彼が5歳のときに家を出てしまい、残された年端もゆかない幼い兄弟4人で網走の激寒の冬を過ごしてきたわけです。集団就職で東京に出て来るわけですが、あまりの貧困でそれまでテレビを一度も見たことが無かった。
兄弟愛も無く、友人も無く、人間関係における学びも無く、職場でのイジメにも遭い、15歳で上京してから逮捕されるまで実質4年間の社会人生活ですよ。社会性の無いまま塀の中に入り、そのままでした。
私は関西で勤務していた頃を思い出しましたが、神戸や大阪で刑務所に入って来る受刑者の犯罪の原因の8割は貧困と差別ですよ。抗いようの無い貧しさゆえに犯罪に走る。しかし、永山のような極端な例を見たことがなかった」
1969年4月7日に19歳で逮捕された永山は、獄中でノートの使用が許可されると、猛勉強を始めた。そして最初の小説「無知の涙」の執筆に入ったのである。
これが1971年に刊行されると、永山はその印税を遺児と遺族に支払う契約を版元と結んだ。被害者の遺族にも謝罪を続け、粛々と机に向かって文章をしたためる日常であった。それは彼にとって賠償と贖罪の行為であった。
坂本は偏見を捨てて虚心坦懐で彼と向き合った。永山とは83年までの6年間で10回以上言葉を交わすことになるのであるが、やがて変化が感じられてきた。
「永山は言葉遣いこそ、荒々しかったですが、決して命令に対して反抗的でもなかった。彼は原石でした。何よりとても頭が良かった。私が一度した話を次に面接したときにはさらに深く聞いてきました。自分で本を読み込んで勉強していたんですね。知的な興味や好奇心が旺盛で向学心もありました。
坂本の内心が疑いと不信に変化したその大きなきっかけは、不明瞭に変容した司法の永山に対する判断だった。
永山は1979年東京地裁の一審で死刑判決を受けていた。しかし、2年後、1981年の控訴審で東京高裁はこれを減刑して無期懲役判決を言い渡していた。坂本もまた、拘置所内の永山の更生を目の当たりにしており、これは妥当な判決であると考えていた。
東京高裁の船田三雄裁判長は二審判決を下した論拠として「死刑の宣告には裁判官全員一致の意見によるべきものとすべき意見があるけれども、その精神は現行法の運用にあたっても考慮するに価するものと考える」としたが、当時、これは死刑廃止に弾みがつく画期的な判決と言われていた。
ところが、1983年の三審で最高裁はこの判決を破棄して東京高裁への差し戻しを命じたのである。一度、無期懲役としたものを再び極刑に科した。
このときに提示された傍論が、いわゆる死刑を選択する判断の基準となっていく。それは犯行の罪質、動機、方法、被害者の数など、9の項目に渡っており、以降、永山基準と呼ばれた。
永山自身は一審のときに「情状は要らない。死刑を望む」としていたが、その後に被害者への謝罪を始め、二審を受けて償いの気持ちをより強く持つようになっていた。それを翻弄するようなこの判決である。「これがお前らのやり方なのか」と言葉にしたという。
坂本は言う。
「あの永山基準というのは死刑にするためのこじつけですから。検察側が、何が何でも死刑にしろということで量刑不当と言って来た。控訴審がそのまま活かされて、標準になっていけば、死刑が無くなってしまうというところから出された基準ですよ。最初に死刑ありきと言ってもいい」
実際に差し戻しての審理の結果はすでに分かっていたと言えた。1987年に東京高裁は控訴を棄却して一審の死刑判決を支持、そして1990年には上告が棄却されて死刑が確定する。
坂本はこの上告棄却に疑念を持っている。犯行当時、ほとんど文字も読めなかった永山は気の遠くなるような努力を続け、膨大な文字量を量産して「無知の涙」「人民を忘れたカナリアたち」「木橋」「捨て子ごっこ」「なぜか、海」などの作品を上梓し、すでに作家として世に名前を知られていた。確定判決の出る直前、日本文芸家協会に入会の申込みを行っていたのである。
「殺人を犯した人間の文芸家協会への入会が認められるか否かで、あの申請は大きな騒動になっていました。永山は日本どころか世界から注目を浴び続けていました。アムネスティやドイツの作家同盟が彼の恩赦を望む書簡を、日本大使館を経由して日本政府に送っていましたからね。
永山に対して最高裁は公判を焦ったのではないかと思いました。実際、あの上告棄却の判決は主文だけで閉廷してしまったのです。おかしなことです。
無期懲役を再び死刑にするこんな重要な判決について判決理由がまったく朗読されなかった。これは理由を書かずに臨んだのではないかと思うのです。繰り返しますが、最初に死刑ありきだった」
19歳で罪を犯した永山は22年間の獄中生活の後、そして40歳で死刑が確定された。しかし、ここで坂本は憤りながらもこんなふうに思っていた。
「最高裁の判決は驚きましたよ。刑務官は永山本人を見ているわけですから、こんなことがあっていいのかと。でも私も含めて現場の刑務官は、永山則夫は死刑が確定しても執行はされないだろうと思っていました。遺族に償いをし続けていたこういう死刑囚はかつていなかったわけです。そんな人間を相手に、死刑執行はしない、できないですよ。
犯行当時、19歳で責任能力があるか無いか。ネグレクトを受けていた彼の知的レベルは中学生くらいですよ。そして今は40歳だと言われてもそのほとんどは獄中ですからね」
永山は自らの小説の印税を被害者遺族に送るだけではなく、社会の最下層で教育を受けずに労働を余儀なくされているペルーの子どもたちのための基金に使っていた。貧困に置かれ、無知の涙を流した自分のような者を二度と生まないために教育による解放を願ってのものであった。執筆はひたすら贖いのために続けていた。
もちろん、寄付や贖罪があったからといって、罪がなくなるわけではない。だからこそ、一生ひたすら償い続ける姿勢を、永山はとり続けたのである。死刑、無期懲役、そして再び死刑、と自らの命と尊厳を弄ばれるような、刑の変遷にも何ら影響をされることなく粛々と文字を書き連ね続けていた。
そんな姿を見ていた刑務官たちも「死刑確定はしても永山は殺されない」と考えていた。なぜなら、法務省が死刑執行の命令を出さずに獄死を待っているとしか思われない死刑囚が何人もいるからだ。
ところが1997年2月。この刑務官たちの予想を覆す事件が起こった。14歳の少年が起こした神戸連続児童殺傷事件、通称「酒鬼薔薇事件」である。
「酒鬼薔薇事件」で大きく流れが変わったと坂本は語る。神戸市須磨区在住の中学生だった少年Aは4人の少年少女をハンマーや小刀、靴紐などで次々に襲い、二人を殺害した。Aは自身が疑われないよう捜査をかく乱する目的で、最後に殺した少年の遺体から首を切断して、あえて自分が通う中学校の正門前に置いた。この残虐な所業はマスコミも大きく報じた。
「有名な死刑囚ほど、死刑の執行は難しいのです。特に永山はその筆頭でした。しかし、検察にとってはその困難な死刑を執行することこそが、大きな存在アピールに繋がる。この酒鬼薔薇事件は世論も含めて『少年も極刑にするぞ』という千載一遇のチャンスだったわけです。刑務官たちは覚悟しました。『これで永山に仕掛けて来るだろう』と」
「法務省や検察には逆らえない」「絶対に殺してはいけない」
ここで東京拘置所内では意見が2つに分断されていたという。
「キャリアを含めた幹部職員たちは法務省、検察の意向に逆らえないという意味での死刑肯定派でした。彼らにとっては、東京拘置所は腰かけですから、異動すれば忘れてしまう。それよりも執行して点数を稼いだ方が良い。対して長く勤務していた現場の刑務官たちは、永山は絶対に殺してはいけないという考えでした」
坂本によれば酒鬼薔薇事件当時、東京拘置所には死刑確定者が三十余人おり、その中で永山よりも古い人物が10人以上いたという。仮に順番通りとしても永山の執行は数年先であった。
しかし、少年Aが逮捕されると、早々に法務省から永山に対する死刑確定者現況照会が文書で届いた。
この照会が来てからはすぐに本省に忖度して執行しようという所長の意を汲んだ幹部職員が『死刑執行できない事情無し』という法務省の望んだ答えそのまま、結論ありきの報告書を作成し提出している。少年Aの審判すら始まっていない、逮捕から1ヵ月後の7月には、拘置所内部の職員は近いうちに永山の死刑が執行されるという認識になっていた。
「1997年には私は刑務官を辞め作家生活に入っていましたが、酒鬼薔薇事件が起こった直後から、これは永山に執行命令が来る可能性が少なからずあると思い注視していました。
まだ現職の刑務官たちとのパイプはありましたので様々な思い、情報が寄せられました。
死刑の執行を毎回担当するのは毎日、死刑囚の運動や入浴に立ち合っている警備隊所属の若い刑務官たちです。彼らと永山は言葉を交わし、冗談さえ言い合っている仲ですから、互いにリスペクトさえ生まれている人間関係と言えます。柔道、剣道の段位持ちの猛者でも 死刑場の清掃、ロープや滑車の手入れをするのはつらいものです。永山のことを思うと心はボロボロになっていたといいます」
8月1日金曜日午前、永山の死刑は執行された。坂本はその非道な最後を現場の刑務官から送られて来た匿名の8通の手紙で知ることになる。
「死刑執行後、本来は遺体を遺族や身元引受人に引き渡します。遺族らが遺骨での引き取りを申し出た場合は、火葬許可書記載の日時に拘置所は遺族らを火葬場に同行し、骨上げをさせて遺骨を持ち帰らせるのです。
ところが、永山の場合は引受人である弁護士に遺体を見せず、拘置所が葛飾区の斎場で火葬した4日月曜日に、遺骨を引き取りに来るよう通知したのです。
永山は死刑場に連行されたときは既に意識を失っていたのではないか、連行時に暴れた永山は制圧という名の暴行によって死刑執行後の遺体を見せられないほど傷つけられ、クロロホルムといった麻酔薬を使用されたのではないかと私は想像しました。永山は独居舎房を出た渡り廊下から職員に担がれて死刑場に運ばれたのです。そして意識のない永山に、処遇部長は形だけ死刑執行を告げる言い渡しをし、そのまま刑壇に上げて首にロープをかけ、床を落とした。おそらく本人は自分が死刑執行されたことも分からないままに絶命したのだと思いました。その想像はほぼ当たっていました。
私がこれらの永山の最後を知ることができたのは、後日8人の刑務官から送られてきた匿名の手紙によってです。そこには、死刑執行の様子だけでなく、死刑に対する率直な思い、例えば、更生させた人間を殺さなければならない矯正職員である刑務官の自己矛盾といったことも書かれていました。また、出世に汲々としている幹部を許せないという思いなども綴られていました。永山の処刑には多くの刑務官たちが心を痛めたのです」
本取材の直前、坂本は夢の中に永山が出てきたという。そして一言「なにもわからない」と告げられたというのだ。坂本はその意味を、刑死になった自覚がないということではないかと言う。
「永山の場合は16歳で窃盗未遂で宇都宮少年鑑別所に入るわけですが、家庭環境、生い立ちなどを斟酌し家裁が保護処分の決定をして少年院送致としていたら彼の人生は変わっていたと思うのです。少年院はしっかりとした学科教育と厳しくも温かい生活指導を徹底する教育現場だからです。いわゆる生きる力をつけられたと思うのです。結果的に無知のまま殺人事件を起こし極刑によって処分された。
死刑執行当日、朝食後執筆をはじめた永山は突然、独房から引き出されました。机上には書きかけの原稿があり、脇には未完成原稿と多数のノートもあった。それらすべての遺留品が遺骨とともに引受人に渡されたかは不明です。私はかつて刑務官という国家権力を背景にして仕事をした一人として、また議院内閣における法務大臣を間接的に選んでいる日本国民のひとりとして彼に心から謝罪したいのです。」
永山則夫は忘れて欲しくない人物である。
参考文献
「誰が永山則夫を殺したのか」坂本敏夫