破戒はご存知のとおり、島崎藤村が1906年に出した小説である。この話の主人公、瀬川丑松は長野県飯山市の飯山小学校の先生で、被差別部落出身の身の上を隠して教職についていたが、結局は父親の「決して言ってはいけない」という「戒め」を破って自分の出身をカミングアウトする、という小説である。したがって書かれているのは飯山、そして千曲川に沿った地域が舞台である。同じ長野県内でも真ん中あたりの岡谷というところはほとんど被差別部落がなかったようである。それに引きかえ千曲川流域は被差別部落が多く、明治5年の「小学校令」の際にも、被差別部落の子供たちは当然学校には行けなかった。そのころ長野県内には寺子屋が多く(だから信州は教育県などと呼ばれるのかもしれないが)明治6,7年にかけて小学校令を受けて少しずつ学校が出来てきたようである。小説の中で瀬川が下宿するお寺は「蓮華寺」となっているが、これは真宗寺のことである。真宗寺はそのころ先生や役人など、多くの人を下宿させていた。その中にそのころやはり教師をしていた高野辰之がいた。高野辰之はあの「うさぎおいしかのやま~♪」の歌詞で有名な「故郷」の作詞家で、生まれは長野県中野市である。今なら飯山小学校までは、車なら10分位で行けるが、当時、特に冬などは通えたものではなかった。そこで町のお寺に下宿していた。そして、ありがちな話だが、そこの娘と懇意になり結婚する。つまりお寺の住職が義理の父親となるのである。童謡が好きで高野辰之を調べていたら、島崎藤村との関わりを知った。戦前姦通罪があったとき、北原白秋は逮捕され、有島武郎は自殺をした。それに比べ島崎藤村の女性関係にうさんくさいものを感じた。ウィキペディア等を使いながらまとめてみた。ある日、辰之に義父が次のように言う。
「高野くん、島崎というやつが書いた本を知っているかね?飯山が舞台となっているのだが読んでみるかね?」
そこで彼はその本、つまり「破戒」を読むのである。そこに書かれていたことを読んで辰之は驚く。なぜなら自分の妻の家が舞台となっているばかりか、そこのお寺の住職やその妻までもが大変な人物として悪く書かれていた。これには辰之も怒るのである。そしてなんと藤村に文書で「抗議」する。そこにはこう書かれていたという。
「真宗寺の住職やその妻が斯く言うように変な人物というのは、うそである。しかし丑松が差別されていたのと同じようなことがあったのは本当だ。あの大江磯吉が飯山に講師として招かれた時最初に泊まった寺でも、大江が「エタ」だと知るやいなや彼を追い出し、すぐさま畳替えをして塩をまいた、そういうことが本当にあったのだから・・・」
高野辰之はこの文書を「唖峰生」という「匿名」である文芸誌『趣味』に投稿している。
この高野辰之の反論に対し、すぐに島崎藤村は「文章世界」という雑誌に反論したのだ。その一節「ふるさとを創った男」の中で、
『〜蓮華寺のすべてが写生でないのは、あの物語の成立がそれを目的としなかったからである』
『「唖峰生」氏は、寺の一部の様子は「破戒」にある通りだ。しかしそれは叙景や叙物のことで、人物はまるで違う」と言われたが、門外漢である私が飯山の寺から学び得たことは、寺院生活の光景の外部に過ぎなかった。「唖峰生」氏の「後日譚」を読んで、私は種々知らなかったことを知った。「破戒」は拙い作であるが、あれでも私は小説のつもりで書いた。〜ああいう性質の作物を解して、私が文学の上で報告しようとしたことを、事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である」と書いた。島崎藤村にはさらに次のようなことも言われている。小諸義塾に勤めていた島崎藤村が、教員養成講習に飯山に出かけた小諸義塾の女子生徒を生徒の下男と称して追ったという。そして真宗寺に宿泊していた2人の女子生徒を、島崎藤村が宿泊していた宿に泊めたことを、真宗寺の住職の奥さんに下男で無いと見破られ叱責されたことを恨みに思い,破戒の中で住職を生臭坊主などと呼び、よく書かなかったというのである。
藤村は当時飯山の真宗寺を訪れたとき、そこの住職であった井上寂英の印象を、『千曲川のスケッチ』その十所収の「山に住む人々の(一)」のなかで、次のように語っている。
「飯山の方では私は何となく高い心を持った一人の老僧に逢って見た。連添う老婦人もなかなかエラ者だ。斯の人達は古い大きな寺院を経営し、年をとっても猶活動を忘れないで居るという風だ」
ところが、小説『破戒』では、蓮華寺に養女として入ったお志保の実父と主人公瀬川丑松との会話のなかで、次のように言っている
「こうです。まあ、聞いてくれ給え。よく世間には立派な人物だと言われていながら、唯女性(おんな)というものにかけて、非常に弱い性質(たち)の男があるものだね。蓮華寺の住職も矢張それだろうと思うよ。あれ程学問もあり、弁才もあり、何一つ備わらないところの無い好い人で、殊に宗教(おしえ)の方の修行もしていながら、それでまだ迷(まよい)が出るというのは、君、どういう訳だろう。」
これに、当時、真宗寺の娘聟であった高野辰之も文芸誌『趣味』に抗議文を発表しており、そのため、島崎藤村はこの『破戒』を発表して以来、死ぬまで飯山に足を踏み入れることはなかったという。こんな話を知り、島崎藤村と破戒のモデルについて調べてみた。
島崎藤村は次兄広助の次女こま子とも関係を持ち、こま子は19歳の1912年半ば、藤村との子を妊娠する。藤村は1913年4月にパリに留学。同年8月に藤村との子を出産するも養子に出された。この養子は10歳時に1923年の関東大震災で行方不明となる。藤村は1916年に帰国し、関係が再燃。その後、藤村は1918年、『新生』(この作品は、岸本捨吉とその姪の不倫関係を大胆に暴露した異常な告白小説で、島崎藤村は、自身が姪のこま子と関係を持った実話をモデルにしたもの。)を発表し、この関係を清算しようとした。1918年7月、こま子は家族会の決定により、台湾の伯父秀雄(藤村の長兄)のもとに身を寄せることになった。それ以来、藤村とは疎遠となる。藤村はその19年後の1937年に「こま子とは二十年前、東と西に別れ、私は新生の途を歩いて来ました。当時の二人の関係は『新生』に書いていることで、つきていますから、今更何も申し上げられません、それ以来二人の関係はふっつりと切れ、途は全く断たれていたのです。」とコメントしている。一方、こま子は後の手記で「(小説『新生』は)ほとんど真実を記述している。けれども叔父に都合の悪い場所はできるだけ消されている」と述べている。1919年12月、こま子は秀雄とともに帰京し、自由学園の羽仁もと子宅に賄婦として住み込んだ。その後、こま子はキリスト教に入信。その縁で京都大学の社会研究会の賄婦となり、無産運動に参加する。河上肇門弟の学生だった長谷川博と35歳で結婚して、長谷川こま子となる。しかし、夫の博は1928年に三・一五事件で検挙、投獄された。こま子は解放運動犠牲者救援会(現在の日本国民救援会)を通じて救援活動に奔走した。1929年には夫が尊敬していた山本宣治が右翼に暗殺されたため、こま子は宣治の葬儀に参列している。夫が出獄後、1933年に娘の紅子(こうこ)をもうけるが、離婚することとなった。上京して運動を続けるが、警察に追われ、また赤貧のため子どもを抱えたまま肋膜炎を患い、東京都板橋区の養育院に1937年3月3日に収容された。このことは、同月6日、7日付『東京日日新聞』記事で、島崎藤村の『新生』のモデルの20年後として報じられた。また林芙美子も、同月7日『婦人公論』記者としてインタビューをしている。林は皮肉を込めて「センエツながら、日本ペン倶楽部の会長さん(注:島崎藤村)は、『償ひ』をして、どうぞこま子さんを幸福にしてあげて下さい」という趣旨の記事を書いた。この記事を受けてのことか分からないが、藤村は、当時の妻静子に50円を持たせて病院を訪問させている(当時、銭湯の料金が6銭。郵便料金は葉書2銭、封書4銭。米60kg(1俵)が約13円である)。静子はこま子に会うことなく、守衛室に金を預けて帰った。藤村は息子に「今頃になって、古疵に触られるのも嫌なものだが、よほど俺に困ってもらわなくちゃならないものかねえ」とぼやいた。
戦後、妻籠(当時は長野県西筑摩郡吾妻村。現・木曽郡南木曽町)に住んだこま子は、「いつも和服で、言葉が美しく、静かな気品」があったと報じられている。作家の松田解子は「ひそやかさの中にまっとうさと輝かしさのある人でした」、「人間の幸せとは、美しいものを美しいといえる、嬉しいことを嬉しいといえることでしょうねぇ」とこま子が語っていたと述べている。こま子は妻籠に20年、その後東京で22年を過ごした。1979年に85歳で病没した。
部落差別に戻る。お寺でさえ差別とは無縁のところではなかったというほど、差別とはすごかったというのがこの高野辰之の文書でも分かる。明治時代、いわれなき差別を受けながらも教育の道に邁進した大江礒吉(ぎきち)の生涯を学ぶ歴史教室が、兵庫県丹波市柏原町の崇広小学校で開かれた。大江は、柏原中学校(現柏原高校)の2代目校長を務め、島崎藤村の小説「破戒」の主人公のモデルともなった。大江の生涯をまとめた著書を引っ提げ、全国各地で講演活動を展開している元柏原高校教諭の荒木謙(78)がオンラインで講演した。要旨は次の通り。
大江は明治元年(1868)、長野県の被差別部落に生まれた。もともとの名は「磯吉(いそきち)」で、のちに「礒吉」と改める。祖父、父、母、兄の5人家族。父や祖父は、旅芸能や村の警察官の下働き、田植えの手伝い、墓掘りなどの仕事をしていた。収入が不安定で貧しかったが、家族は「差別の苦しみから抜け出すためにも、学問で身を立たせてやりたい」と磯吉を必死の思いで学校に通わせた。母親は、学費を捻出するために、せんべいを焼き、売り歩いたが、「低い身分の者が作ったせんべいを一般の人は食べないだろう」と、自分の身分を知らない遠方まで出掛けて商売をした。売れ残ったせんべいを磯吉に食べさせようとしたが、母の苦労を知っていただけに食べなかった。
磯吉は、部落の人が強要され着せられていた、ほかの人とは違う服装をしていた。けんかをしないよう、いつも愛想良く、人の後ろについて遊んでいた。人に勝つと、差別感情が起こり、いじめられるので「負けること」に努めていた。それでも学校の襖が破れたり、盗難があったりすれば磯吉のせいにされた。
登校時に、友だちの支度が整うのを友人宅の前で待っているとき、雨や雪の日でも決して家の中に招き入れてもらえることはなかった。
明治14年(1881)、8年通った小学校を長野県トップの成績で卒業。卒業名簿には成績順に名前が記載される習わしだったが、校長から部落の人を1番目に記載することはできないと言われ、2番目に記述された。当時、教育者であってもこのような差別をしていた。
同年、小学校の代用教員となったが、保護者の反対を受け、1年で辞めさせられた。
成績が良く、日頃の行いも良かった磯吉は、近隣からの支援を受け、当時は進学が珍しい中学校(現在の高校)に入学。英語の教師から、欧米の民主主義を教わり、自由と平等の尊さを知った。
18歳で念願の小学校の先生となるも、またも磯吉の「生まれ」が問題になり、学校を追われた。
明治26年(1893)、大阪師範学校の教諭となり、名を「礒吉」に改めた。しかし、そこでも「生まれ」を暴かれ、鳥取の師範学校へ移り教鞭を執った。
明治4年(1871)、被差別民への差別を禁じた解放令が発令されたが、差別は続いていた。「法律だけでは駄目。人の心が豊かに変わっていかないと差別はなくならない。差別されない人になるにはどうすればよいか」を考えたとき、「しっかりと勉強し、誰からも愛され、人を思いやり、清く正しく生きること」と導き出し、教え子が「あらゆる差別を許さない」強い人に成長してくれることを願った。教師になった理由もそこにあった。
明治34年(1901)、校長として着任した柏原中学校では、生徒の自主性や自立心を高めるため、軟式テニス部や野球部、英語弁論部などをつくることを認めるなど、生徒の希望に応じた活動を奨励。翌年、34歳の若さで病死するが、生徒がのびのびと学べる校風をつくりあげたことにより、のちに内閣総理大臣になった芦田均などの政治家をはじめ、歌人や俳人など、さまざまな分野で活躍する人物を輩出している。
ある長野県人が大江磯吉の生涯を語る。その一分を載せる。
明治32年に大江磯吉は、兵庫県に新しくできた柏原中学校の校長先生になった。磯吉は33歳の若さである。磯吉は、ふるさとの年老いた母の元へしばしば帰った。立派な教育者になった磯吉は、村先まで来ると人力車から降り、洋服を脱ぎ、靴を脱ぎ、もも引きをはき、きゃはん・わらじ姿に身なりを変えて村へ帰った。家に着くと、すぐ近所のお世話になった家へのお礼の挨拶にまわり「ごめんくださいまし。磯吉であります。留守中父母がお世話になりまして」と土間に片膝ついて、両手を地面につけたまま頭を下げるのであった。「あれ、先生、まあ、もったげない。そんなことおよして」と年寄り衆は、目に涙を浮かべて止めさせようとしたのであった。役職の地位があるほど謙虚な態度を失わず、村に帰っても村人に挨拶して回った。彼の心の奥ゆかしさに、心ある人は強い感動を覚え、心ない人々は、さらにこれを部落民として許さなかったのである。ある時、母の志のが病気にたおれた、という便りを手にした磯吉は、学校の仕事を一切教頭に伝え、急いで信州に帰った。阿智の駒場まで来ると、村の若者十数名が迎えに出ていた。若者たちに礼を言う磯吉に早く母の元へ帰るよう、せき立てた。
残念なことに磯吉は、一心に看病するあまり、母のチフスがうつり、母親より早く亡くなってしまったのである。磯吉はどんなに心残りだったであろう。磯吉は、差別と闘うために、一生懸命に学問をした。物心両面から援助したお隣の医師や、村人は、磯吉の学問と人間性を高く評価していた。差別と闘い、闘い抜いた男、大江磯吉は、飯田市下殿岡の共同墓地に今も静かにねむっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『破戒』のモデル大江礒吉に生涯 荒木謙